ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

あなたが今日死のうとするかのように

ああ、ただ現在のことだけを想い見て、未来のことはあらかじめ用意しない人の心の、なんと愚かに、頑迷なことか。あなたが今日死のうとするかのように、すべての行いや想いにおいて、身を処すべきである。(…)あすは不確かな日である。あなたが明日の日を持てるかどうか、どうして解ろう。

トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫,p.53

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死の予見において、現在する生の自由が照り出でる

トマスは、現在のことだけを想い見て、未来のことを用意しない人の心を戒める。しかし、死を想いて生きよとは、将来を憂うことではない。明日着るものはあるだろうか、食べるものはあるだろうかと明日を思い煩い(マタイ6章)今を見失うことではない。そうではなく、死を想うことは、今を十全に生きるべく、今へと立ち返らせてくれる。その「今」とは、現に呼吸の生起するこの瞬間であり、現実の行為が発出するわたしの実存でもある。死の予見において、たった今、現在している生の自由が照り出でるのである。

おこないなさい、今おこなうのだ、最愛の(わが魂)よ、することのできるどんなことでも。なぜというと、あなたは自分がいつ死ぬのかも知らず、また死後何が自分を待っているのかも知らないのだから。

同上p.56

人間のいのちは影のように

トマスが生きていたのは14世紀後半から15世紀。
医療をはじめとした科学技術が進歩し、死が人々の生活から切り離されて処理されるようになったように見える現代よりも、トマスの時代、死は身近に接する機会が多かったのかもしれない。が、だからと言って人々が自らの死の可能性を身近に覚えて生きていたわけでもないらしいことは、次の文章からもわかることだ。もしそうであったならば、わざわざトマスが先ほどからのような警句を書き残す必要がない。 

どれほど多数の人々が、長く生きてゆけると思っていたのに、その望みを奪われたことか、思いがけずに現身を引きはなされて。(…)万人の行きつくところは死であり、人間のいのちは影のようにたちまち移りゆくのである。p.56

おぉ「人間のいのちは影のようにたちまち移りゆく」!。
なんと美しい言葉だろうと思いつつ、私はここで巌のようにごつごつした禅の言葉を想起している。

生死事大 光陰可惜

無常迅速 時人不待

「生きて死ぬというこのことこそ、究明すべき絶大なる事項。

 それゆえ、たちどころに過ぎ行くこの時を、人は惜しむべきだ。

 何事も永遠に続くものなどなくすべては来りては速やかに去るばかりであって、

 時は決して人を待ってくれなどしないから。」(意訳)