ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

人を手段化しない経済。影山知明さん『ゆっくり、いそげ』読後メモと紹介

影山知明さん『ゆっくり、いそげ』(大和書房)を読んだ。
副題である"カフェからはじめる人を手段化しない経済"というタイトルに惹かれて。

 

著者は、クルミドコーヒー」(西国分寺)店主の影山知明さん。作中で描かれているように、丁寧にいれられたコーヒーが飲めるだけでなく、哲学カフェ、地域通貨、出版、カフェでの演奏会などとっても、魅力的な取り組みをなさっている(行ってみたい!)。
帯に「"理想と現実"を両立させる仕事論」と紹介されているが、クルミドコーヒーというお店の取り組みにまつわる、非常に具体的なエピソードと、仕事のあり方についての実践的理論とがちょうどよくブレンドされている。読みやすくとも、読んだことすら忘れ、何も残らない読書もあるが、これはそうではない。すっきりと読め、かつ、静かであたたかな余韻を残してくれている。

さて読後の頭の整理も兼ね、第7章後半の"「利益」の定義を変える"の箇所を、紹介しよう(pp.229-237)。ここではこの本のエッセンスが、要約的にとてもエレガントに表現されていると思うから。

成果の数式の再解釈

まず取り上げられるのは、

 

成果=利益÷(投下資本×時間)

 

という数式。通常であれば、成果を最大化するために、「利益」を最大化し、「投下資本×時間」を最小化すべしと考える。
(例えば、パンを焼いて販売しているお店であれば、なるべくパンの売り上げ高を大きくすること。パンを作るためのコスト(お金と時間)を減らすことを考えること。なるべく安く&早く作って、たくさんお金を稼ぐ、という考え方。)

 

それに対し、この本で提案されているのは、

①「利益」の定義を変えること。
②分子を目的とするのでなく、分母を目的とすること。

の二つ。

ひとつめの提案。利益の定義を変える

まず①について。利益の定義を変える。
どういうことか。具体的には、

・利益とは、お金だけではなく、お金に還元できない価値(大事なもの・大事なこと)も含めて理解するということ。

・それから、自分の大事な人にとっての利益は、自分にとっても大事なのだから、それも含めて利益ととらえること。

・利益は、短期的なものだけでなく、長期的な利益もあること。

 

このように、利益の定義を変える(というか拡張?)という考えを、著者は提供してくださっている。これは、とても面白いし、ちょっとわくわくする。金銭的な利益のみを利益とするような、単一的な価値規範から自由になることができて、なんか、世の中が豊かになるような気がする。

 

ふたつめの提案。分母を目的にする

分子を目的とするのでなく、分母を目的とする、とはどういうことか。まず、

 分子=利益
 分母=投下資本×時間

であった。


だから、そもそも分子を目的とするとは、利益を得ることを目的とするということで、相手(お客さんなど)から「とる(テイクする)」ことが目的ということだ。例えば、パンを売って、相手からお金をテイクすること。それが目的ということだと。

 

著者の提案は、これを逆転すること。
分子は結果。分母が目的。分母(投下資本×時間)すなわち、「贈る(ギヴ)」すること、これを目的とする。相手からとることではなく、贈ることを仕事の目的としては、ということ。別の言い方をすると、「一生懸命、時間をかけるのだ。一生懸命、手間ひまをかけるのだ」(p.234)ということ。

 

これは、すごい。タイトルにある「人を手段化しない経済」という言葉も、これにつながるところだと思う。

利益目的だと、相手から「とる」ことが目的なのだから、相手は極端に言えば収奪の対象となり、相手は単に「手段」(お金をこちらに渡す存在)と認識されかねない。人が「手段化」される、ということ。

反対に、贈ることが目的というのは、相手の喜び・幸福を志向するということで、すなわち相手の存在が目的となっている。目の前のあいてを大切にするということ。(カントの実践理性批判を想い出す。「自分や他人を単に手段として扱うのではなく、 つねに同時に目的自体として扱うべし」)

 

(ちなみに、著者は、お金の価値を絶対視しないこのようなやりかたで、結果としてお金の価値も生み出すことができるのではないか、という「仮説」を立てておられる!)

 

〈人〉と〈今〉を手段化しない。

人を手段化しない。それから、分母を目的とするということに関して素晴らしいと思うのは、「今」というこの時を、単に手段化しない道も開けるということだ(これは著者が明示的に言っているわけではないが)。見田宗介曰く、

くりかえし確認してきたように、近代の根本理念は<自由>と<平等>ということにあった。他方確認してきたように、近代の現実原則は<合理化>ということであった。社会のすみずみ、生のすみずみの領域までもの、生産主義的、未来主義的、手段主義的な合理性の浸透ということであった。手段主義的とは、現在の生を、それ自体として楽しむのではなく、未来にある「目的」のための手段として考えるということである。見田宗介現代社会はどこに向かうか』岩波新書p.38

(より良い、手に入れたい)未来のためだけに仕事をすることは、今という時間を従属的な位置に置き、未来を実現するための「手段」として定位する。そうすると、今というこの瞬間は単に耐え忍ぶべきもの、それ自体としては大切ではないもの、未来を媒介しなければ、空虚なものとなってしまう。そうではなく、分母を目的とすることは、手間ひまかけて、一生懸命丁寧に仕事するその「今」そのものを目的とし、「今」そのものを充足することなのではないか。

 

「人」を手段化しない。そして「今」を手段化しない。

そのために、今の自分の持ち場でできることを具体的に実践していきたい気持ちになっている。