本の虫 福・心

ソーシャルワーク、心理療法などに関連する書籍の紹介や読書のメモ。特にRogersやGendlin(フォーカシング)、ブリーフセラピーなどに関心があります。

バーンアウトから自分を助けるために役に立つかもしれないこと

この記事を書いている今日は、令和4日目、大型連休の真っただ中です。
ゆっくりお休みできている方も、世間は連休にかかわらず普段通りお仕事されている方もいらっしゃるでしょうか。

わたしは、連休を有難く享受しており、普段と違う気分の楽さを感じています。すごく楽。解放感。ふだん、結構仕事でストレスかかっているのかな…と思いつつ(そして次回出勤の心配をおぼろげにしている)。

ストレスは大なり小なりあるもので、ひとそれぞれ、ストレスの対処の方法を、持って使っているはずです。意識的に使うこともあれば、あまり意識せずに行っていることもあるかもしれません。

さて今日は、より意識的に自分自身のストレスについて振り返り、対策を講ずる上で役に立ちそうな、「バーンアウト(燃えつき)」の考え方について、まとめてみます。
 Q1.燃えつきの「症状=要注意サイン」にはどのようなものがあるでしょうか。
 Q2.どんな人が燃えつきになりやすいのでしょうか。
 Q3.どのように燃えつきに対処すればよいのでしょうか。

内容は主に、『ジェネラリスト・ソーシャルワーク*1(pp.236-237)を参照しています。わたしは援助職(ソーシャルワーカー)ですが、それ以外の職業にも当てはまる一般的な内容ではないかと思われます。

バーンアウトとは

バーンアウト」は日本語では「燃えつき」です。「燃えつき症候群」という言葉も存在し、検索するとこれらについての一般的な情報がヒットします。

これは、自分が所属している「機関システムの中(注:職場)でのストレスの症状である場合が多い」とされます。(「場合が多い」というのは、家庭で子どもが生まれ夜泣きがひどくて眠れないといった、職場以外の要因が関連することもあるからだと思われます)その結果、「前向きな感情」「共感」「敬意」が失われるといいます。

前向きな感情…「よしやろう」「いい仕事をしよう」「今日は○○が出来た!」「楽しい!」「面白い!」といった気持ち
共感敬意…お客さん(援助職であれば患者さん、クライエント)や同僚などに対して、相手の話に耳を傾け理解し思いやること、尊重すること

こういった状態で仕事をするのは、とくに他者との関係性の質を重視する援助職などでは、仕事のパフォーマンスにとって致命的なものになりそうです。そして、その状態で仕事をすること自体が自分自身にとっても苦痛なものとなってしまいます。ですから、「自分の機能遂行やバーンナウトの症状に敏感でなければならない」。では、バーンアウトの症状として、どのようなものがあるのでしょうか。症状とは「要注意サイン」のことですね。

バーンアウトの症状=要注意信号

以下が、「症状=要注意信号」です。風邪で熱が出たとき、せき・鼻水・熱といった症状は、休養を促す「要注意信号」であるように、以下のような症状が該当する場合は、自分自身へのケアを促すサインであるかもしれません。本では、一般的な項目として、6つが紹介されていました。具体例は、わたしの思いつきです。

1.尊重されていないという感情

これは例えば、
「無視されている気がする」「話を聞いてもらえない」
「必要とされていない」
「あつかいが適当な気がする」「わたしだけ輪に入れていない気がする」
「馬鹿にされている」「軽視されている」「下に見られている」
「陰でわたしの不満が言われている気がして怖い」
などでしょうか。

2.笑う力の喪失

例として思いつくもの
・自分から冗談が言えなくなる。あらゆる応答が機械的になってくる。
・周りの人(利用者さんや同僚)が冗談で笑っていても、わたしは笑えない。
・笑えない。けど顔だけ頑張って笑おうとする。
・笑えない。かつ周りの人が笑っているのを見るといらいらする。
・笑えない。普段なら笑える自分への「いじり」も、真に受けて傷つく。馬鹿にするなよ。腹が立つ。

3.病気


・頭痛。夕方になると頭がガンガンする。
・腰が痛くなる。
・お腹が痛くなる。
・すぐ風邪をひく。

4.疲労


・すぐ疲れる
・なんかだるい
・なんか体が重い
・朝起きて疲れる
・着替えて疲れる
・歯磨いて疲れる
・ため息多し
・疲れた、が口癖
・とにかく、なんかいつも疲れた感じがする

5.出勤恐怖症


・会社に行くのが怖い
・休みが明けるのが不安

6.睡眠困難


・夜、寝れない。
・寝てもすぐ目が覚める
・明け方なんども目が覚める
・寝ても疲れがとれた感じがしない

以上、実例を思いつくままに並べていったのですが、思ったよりたくさん思いついてしまい、じぶんやばい(ときが結構おおい)んじゃないか、という気がしてきました笑 (ここにあるようなこと経験しないで仕事できる人がいたらすごい)

日常、多かれ少なかれ、これらのことを経験しながら生活している中で、その程度が大きくなっているかどうかを、自分自身をモニターしていることが重要に思われます。もっとも、本当に調子が悪いときは、調子の悪さも自覚できないものですが。

燃え尽きやすい人

さて、燃えつきやすい人というのもいるそうです。

1.長時間非常に集中して頑張りすぎる傾向がある人

「彼らは若く、仕事に対して情熱的な場合が多い」らしい。

2.プライベートな生活で満たせていないものを、仕事の上で満たそうとしている人

例.
・家族には感謝を求めても得られないので、仕事の人間関係で感謝されるように頑張る。
・友達がいなくて話し相手がいないので、クライエントの話を聴いていると満たされる。
・家に居場所がないので、会社での同僚との関係が居場所
などでしょうか。

 

3.目的を達成できないと感じていたり、自分の行動がコントロールできていないと感じる人

例.
・今日中に、関係機関に電話を3本入れて連絡調整しておきたかったのに、1本しか入れれなかった…
・机の上かたずけなきゃとずっと思っているのに、できない
・だれそれさんに頼まれた調べもの、早く調べとかなきゃならないのに、ぜんぜんできてない、やばい…

ではどのように対処するか?

以上、バーンアウトの症状やなりやすい人の特徴について見てきました。では、どのように対処していけばよいのでしょうか。本をまとめると、次の4点です。

1、現状を認識する
2、これまで軽視してきた個人的ニーズに注目する
3、休養、運動、健康的な食事など自分をいたわる養生をする
4、個人的ニーズを満たすのに助けとなる個人的資源のネットワークを作る

詳しく見ていきましょう。

1.現状を認識する

「最近意外と、ストレスかかってないかな…?」「バーンアウトぎみじゃないかな…?」
など、自分にきいてみましょう。上述の「要注意信号」に照らし合わせて該当するものがないかチェックしてみてもいいかもしれません。

なお、浦川の「べてるの家」では、精神障害を経験する当事者の実践知として「なつひさお」が活用されていると聞きます(向谷地生良先生の『技法以前』『精神障害と教会』参照)。「なつひさお」を使うと自分の状態を簡単にチェックできます。


 な なやんでないかな
 つ つかれてないかな
 ひ ひまじゃないかな
 さ さびしくないかな
 お おなかすいてないかな、おくすり・おかねにこまってないかな

また、普段から、ストレス状況時の自分にありがちな「注意信号」をリスト化して、自分のピンチサインを自覚しておくとよいかもしれません。ちょっと疲れた時・余裕がないときなどに自分がどんな状態になるか(「働けない程度ではない風邪気味になる」「ふだん気にならない同僚の口癖が癪に障り始める」など)の自己観察に基づくデータの蓄積。

わたしは小さなノートを一冊作って、調子悪い時のサイン集や、自分助けの対処法リストをまとめるようにしています。


2.これまで軽視してきた個人的ニーズに注目する

余裕なくて、部屋がゴミだらけ。
昼食は取れない時もあるし、夜はコンビニ弁当ばかり。
仕事中もまともに休憩時間取れてない。1日中動きっぱなし。
有給取る取る詐欺で、いつの間にか半年も有給取ってない。
しかも今月そういえば2日も休日出勤している。

自分自身へのケアがおろそかになっていないか。これまでおろそかにしてしまっていいたかもしれないけど、自分が必要としているものは何でしょうか。

3.休養、運動、健康的な食事など自分をいたわる養生をする

・ゆっくりすることを自分に許してあげる
・遠慮せずに堂々と有給をとる
・休憩時間まで仕事しないでゆっくりする
・休日は公園を散歩する
・今日は帰り焼き肉屋に行く
・温泉に行く
など。

どんなじぶんの「いたわりかた」「自分の助け方」があるでしょうか。(WRAPでは「元気に役立つ道具箱」という表現があります。このツールボックスのなかみは豊富でしょうか。ツールはよく使っていますか。それとも使わずさびついていますか)

4.個人的ニーズを満たすのに助けとなる個人的資源のネットワークを作る

これは、どちらかというと、ストレスがかさむかさまない以前の普段の段階から、意識して行っておくことが必要そうです。ピンチの時に急にネットワークを作るのは大変ですから。

・しがらみにとらわれず自由に話ができる仲間をつくる。例えば、趣味の仲間、町内会のご近所さんとの親睦、信仰を持っている人であれば信仰共同体(クリスチャンなら日曜日に行く教会など)などでしょうか。

・体調が悪いときに、子育てで面倒を見てくれる人、家事を手伝ってくれる人、など具体的なサポートを行ってくれる人なども、「個人的資源」にふくまれると思います

・また「理事会に働けてくれたり、状況の分析を手伝ってくれる人は特に役に立つ」とのことです。一人ではなかなか自分の状況が見えないことも多いものです。自分の状況を振り返る上で、話を聴いてくれる人が一人でもいるなら、幸せなことです。また、「理事会に働きかけてくれる」というのは、職場環境に問題がある際、その改善に向けて組織に訴え、援助してくれる人がいると助けになる、ということでしょう。

わたしの場合は、カウンセリングを一緒に学んでいる勉強仲間と話をする、フォーカシングの集まりに出かける、近所のお寺に瞑想しに行く…などでしょうか。

まとめ

対人援助職は、自分を道具として使う仕事とも言われます。いい仕事をする上では、道具の手入れをしなければなりません。

コヴィー氏の『7つの習慣』に「P/PCバランス」という考え方があります。
「P」とはproduct、成果のこと。

「PC」とはプロダクトを生み出す能力(capacity)のこと。

木を切って木材を得ること(P)を急ぐあまり、のこぎりの歯を手入れしなければ、どんどん切れ味(PC)が落ちて、結果として成果も下がってしまいます。かといって歯の手入ればかりしていても、成果を上げることはできません。PとPCのバランスをとることが大事です。援助職も、まさに同様で、このバランスを意識することが必要です。
そうしたバランスをとるためにも、上記の「ではどのように対処するか?」の1~4のステップは、ガイドラインとして役に立つかもしれません。

 

また、「援助の道具」である以前に、自分自身も「大切なひとりの人間」です。「人というものは尊い(人間尊重)」という認識が、援助職の援助の前提にあるものならば、ほかならぬ自分自身も人なのですから、同様に尊ばれ、大事にされねばなりません。


最後にバーンアウトへの事前の準備としてできそうなことをまとめておきます。
このあたりならだれでも、いつでも始められそうです。

① 「要注意信号」のデータ蓄積
「さいきん調子悪かったり、疲れていた時、じぶんはどんな様子だったかな」。
調子が悪い・余裕がなくなっているときの自分のサインを自己観察して、データを蓄積しておく(→そうするとストレスがかかっているとき、ストレスがかかっている現状に早く気が付きやすくなる)。

② 「自分の助け方」を豊かにする
「どんなことをしてあげるとじぶんは元気がでるかな」
普段気づかず行っている上手な「自分の助け方」を、まず思い出す。またほかの人の自分の助け方を学んだり(人に聞いたり本で読んだり)、新たに自分で開発して、蓄積する。この中には、ほかの人の手を借りる頼るという選択肢も含めて考える(→ストレスがかかっていることに気づいたときに、すぐに活用できる)

 

 

*1:ルイーズC.ジョンソン、ステファンJ.ヤンカ著 山辺朗子、岩間伸之訳

おじさんと学生

理性の導きによって生活している人間には、あわれみはそれ自体で悪であり、また無用である。なぜならあわれみは(…)悲しみである。だから(…)それ自体で悪である」

スピノザ『エチカ』第四部、定理50(工藤喜作、斎藤博訳)

……

北海道の桜の開花は遅い。
まれにぽつりと水滴をこぼす、憂鬱な曇り空の下、早くも桜はちりぎみだった。

ゴールデンウィークのさ中の今日、大通りを歩いていると、大学生くらいの若者の集団とすれ違った。男女混成で、7、8名はいただろうか。団子のようにごちゃごちゃと歩いている。

すれ違いざま、わたしの脳裏に浮かんだのは、学生時代、飲み会が終わり、店の前でたむろしていた夜の場面だった。

……

所属していた専修の、数少ない飲み会が終わり、さっと解散できず、店の前でぐずぐずたむろしていたのだったか。10メートルくらい向こうから、30歳くらいのおじさんが何かをわめいていた。兵庫県神戸は六甲、あの小狭い路地。小道一本挟むくらいの距離からの、われわれへの遠隔射撃だった。何を言っていたかはよくわからないし忘れてしまった。ただ、こちらが楽しそうに見えたのが不満らしく、ねたみとうらみをまじえてなげかける言葉が、よわよわしくおっかなびっくりで自信なさげだったことはよく覚えている。そして一方的に攻撃を仕掛けてきたのに、なぜか逃げ腰だった。

わたしたちは、会話を中断し、彼のほうをみたが、だれも何もいわなかった。別に怖くはなかった。道一本離れた距離だし、こちらのほうが人数が多かったし、彼はあんな様子だったから。

そんな状況を見て、とっさに見知らぬお兄さんコンビが、ふにゃふにゃとわめいている男に「まぁまぁお兄さん、そんなこと言ったら…」と近づいていってくれた。近づきざま、ちらりとこちらを気遣って振り向いたスマイルは、何かおいしいものを見つけて喜ぶ、いかにも元気はつらつとした健康な動物のような目をしていた。わたしたちは、男のことはお兄さんたちに任せ、次の店に行くことにしたが、なんだか会話は弾まなかった。そして誰も彼のことを話題にしようとしなかった。

……

…というあの夜のエピソードが、学生集団とすれ違いざまに、瞬時に脳裏に浮かびあがった。学生たちを目の端でとらえ、わたしが、あの男性と同じくらいの年齢に近づいてきたことを感じつつ。わたしたちはあの人の叫びを黙殺した。しかしあの出来事は、未だにわたしのなかに、一個の宿題のように残っていて訴えかける。

                                                              R1.5.2

ソーシャルワークの価値前提 人間の社会性についての考察

 ゾフィア・T・ブトゥリム

ソーシャルワークとは何か その本質と機能』

ブトゥリムは、ソーシャルワークの価値前提として、

  • 人間尊重
  • 人間の社会性
  • 変化の可能性

を挙げました。

以下は、そのうちの「人間の社会性」についての考察です。

 全面的な依存性


震災で、電気が止まった時、水道が止まった時、わたしたちは、いかに自らの生活が、多くのものに依存していたかと言うことを知ります。地震で信号機も光をおとし、みなが混乱しているそのさ中、電気の付かない店内で、コンビニのアルバイトの店員さんたちが、パンやおにぎりを販売してくれたことの、どれほどありがたかったことか。パンやコメが手に入るということは、簡単なことではないのです。それは、全面的に他者に依存しているのです。

 

なぜなら、わたしは米を作ることも小麦を作ることもできません。土地もありませんし、技術もありません。しかしわたしは食べなければ生きていけない。コメにせよ、小麦にせよ、あるいはイモにせよ、わたしの生存は、それを生産する農家の方に依存しています。そして作られた作物を運搬する運送業者の方に依存しています。また、それを販売するスーパーの店員に依存しています。その他大勢の人に依存しているでしょう。私の生は、全面的に他者に依存しています。


あたりまえなことにはきづかない


健康であるときは、健康であることに気が付かず感謝もしないように(風邪から治り、健康を実感するとともに感謝し、そしてまた忘れる)、平時我々は、我々の生活がいかに他者に依存してるかと言うことに気が付きません。地震のような特別な出来事によって、社会のさまざまなシステムのネットワークや機能を停滞するという事態が起こって、初めて私たちは、私たちの生活がさまざまなものにささえられて存立していたかを知ります。

 

このように、人がふだんそれぞれ独自に生きているということは、ひとびとがたがいに依存しあうことを基盤としています。つまり、人間は社会的です。別の言い方をするならば、私の生活は、他者の働きの、関係的なシステムの中に埋め込まれており、それに依存して初めて可能なのです。この人間の社会性はあたりまえの前提であるため、ふだん意識することはあまりありません。

 

第二のソーシャルワークの基本的な価値前提は、人間の社会性に対する信念である。つまり、人間はそれぞれに独自性をもった生きものであるが、その独自性を貫徹するのに、他者に依存する存在であることをさしている(ブトゥリム(川田・訳)『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』川島書店,1986,p.61)


あらゆる人は、社会的である

ところでこのような問いが可能です。


大きな事業を展開することで、社会に貢献し、多くの人に認められている人が社会的である、ということはイメージが容易です。しかし逆に、他者との関わりを閉ざし、自室に閉じこもっている人も、社会的なのでしょうか。あるいは、罪を犯した人は、社会性がないから、そのような行動を起こしてしまったのではないでしょうか。あるいは満足のいく他者とのつながりがなかったから孤立し、そのような行動にむすびつたのではないでしょうか。

 

人間の社会性への信念が、ソーシャルワーカーの価値的前提であるとブトゥリムはいいます。しかし、すべての人が社会性をもつと、言えるのでしょうか。「社会性」=「社会的であるということ」を、より基本的なレベルに遡って考えてみます。

 

まず物質的な人間の生存要件について考えてみましょう。人は、生きている限りは、食べ、そして排泄します。食べ物は誰が作り、どこからくるのでしょうか。おしっこを流す水はどこからくるのでしょうか。レバーひねれば簡単に流れる水も、誰かの仕事ゆえに、安全なものとしてそこに供給されているはずです。社会との関係をたっているように見える人の生活も、他者との様々な関係性によって可能となっている、ということが言えます。

 

そのように考えると、いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる状態にある人も、その生活は社会的なつながりによって成立し得るものです。また、罪を犯し、刑務所に入っている人も、刑務所と言う社会的な装置の中があって、食べ物や寝る場所などもろもろの資源が供給され、その現在の生活が成立しているはずです。こう考えると、社会的でないように見える人々も(あるいは貧しい、不十分なつながりしかないように見える人も)、生存へのニーズは存在し、それはおそらく自給自足ではなく誰かによって供給されているのだから、その意味で何らかの仕方で社会性を帯びていると言えます。

 

また、上で述べたような生存基盤としての物理的ニーズを満たすうえでの相互依存性ということ以上の意味があります。

 

そもそも、ある人の振る舞いが犯罪とみなされるということは、そのようにみなす社会的なシステムが稼働しているといことでもあります。罪を犯すとは、他者に危害をもたらすような、関係の取り持ち方であると考えるなら、そこにはすでに、何らかの仕方での他者との相互依存的関係が前提されています。無人島でまったく一人で暮らしている人には、「ひきこもり」もなければ「犯罪」もないでしょう。なぜならそこには関係し、依存したり依存されるべき他者が存在しないからです(誰から引きこもり、誰に対して罪を犯すのか)。他者がいない条件下では、「ひきこもり」や「犯罪」と言った概念は用をなしません。そもそも、相互依存が成立する他者との関係性の網目の中に置かれているから、「ひきこもり」や「犯罪」が成立すると考えられます。

 

一般的に、非社会的であること、反社会的であることは、人間の社会性を前提として成立すると考えらえます。

 

ここで示されている「社会性」とは、よくこの語を使う際に意味するように、他者と友好的(あるいは協力的)な関係を築く能力のことを言っているのではありません。それは、より基礎的な事態、すなわち、人間は個々に独自の生を生きるが、それは他者との相互依存的関係の中で可能である、という人間の存在の様式を指していると解釈できます。

 

人間の社会性は、ソーシャルワークのもろもろの価値の前提である

さてこの水準にまでさかのぼって、人間の社会性をとらえるとするならば、このようなことは、とりたてて言うほどのことでもない当たり前の事実です。ですから健康と同様に、この事実をふだんあまり、意識することの少ない、人間の存在の様式です。しかし、人間の社会性に関する信念が、ソーシャルワークの価値の前提の一つだとブトゥリムは考えます。以下再掲。

 

第二のソーシャルワークの基本的な価値前提は、人間の社会性に対する信念である。つまり、人間はそれぞれに独自性をもった生きものであるが、その独自性を貫徹するのに、他者に依存する存在であることをさしている(ブトゥリム(川田・訳)『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』川島書店,1986,p.61))

 

ですから、これをクライエントとワーカーの関係にも当てはめて考えるならば、クライエントがソーシャルワーカーに依存しているのと同時に、ソーシャルワーカーもクライエントに依存している、と言えます。このような相互依存関係を認めなければ「虚偽」をもたらすとさえブトゥリムは言います。では、ワーカーとクライエントの相互依存性とはどのようなことなのでしょうか。これについては別の機会にあらためて考察することとしましょう。

 

 ゾフィア・T・ブトゥリム

ソーシャルワークとは何か その本質と機能』

クライエントとの関係における自己一致。ジェンドリンを参照しつつ咀嚼

この記事では、ロジャーズの有名な中核三条件の一つである「一致」について、ジェンドリンの論を参照しつつ、咀嚼していきます(走り書き)。クライエントとのかかわりの中で、一致しているとはどういうことか。ジェンドリンの言葉では、一致しているとは、単に言葉だけでなく、その体験過程も持っているということです。

 

「一致」「純粋さ(誠実さ)」ロジャーズ、ジェンドリンの説明

人の変化・成長を促す、援助者(援助関係だけでなく親子関係、上司と部下の関係などあらゆる人間関係一般についてそうなのだが)の条件をロジャーズは、「一致」「共感的理解」「無条件の肯定的配慮」と定式化していることは有名。そのうちの一つ、「一致(純粋)」についてロジャーズ自身の言葉をまず以下、引用。

第一は見せかけのない事、真実、一致と呼ばれる要因です。治療者が専門家としての仮面で接することなく、自己自身であるほど、来談者は建設的変化を示すといいうものです。これは、治療者がその瞬間に内部で動めいている感情や態度に開かれていることを意味します。『透明』という言葉がこの雰囲気を伝えているかと思います。つまり、治療者は来談者に対して自己を透明に示す。来談者は関りの中で治療者の存在を見通すことが出来る。カール・ロジャーズ(畠瀬・訳)『[新版]人間尊重の心理学』創元社、2007、p.102

一致とは、「その瞬間に内部で動めいている感情や態度に開かれている」こと。
これをジェンドリンは「概念化と同じく体験過程を持っている」とシンプルに表現している。ここでいう「純粋さ」は「一致」と同義。

純粋さの問題は単純なものです。つまり、カウンセラーは、彼が表現する概念化と同じように現在の体験過程も持っているのか、あるいは概念化だけしか持っていないのか?ということです。もし、彼が概念化と同じく体験過程をも持っているならば、その時そのカウンセラーは純粋にクライエントを経験しているわけです。(ジェンドリン(筒井・訳)『体験過程と意味の創造』ぶっく東京、1993、pp.285-286)

カウンセラーが表現するとき、その表現(概念、ことば)の体験過程も持っているということ。それが一致。「一致」とはどのようなことなのか。わたしはふだん、一致した態度を持てているのか。説明を読んでも、よくわかりません。

 

…と、いま言った、「よくわかりません」は一致している表現の実例だと理解してよいだろう。なぜなら、わたしが今感じている、わからない「感じ」に直に照らし合わせたところから発せられた言葉だから。

 

体験過程に触れつつ聴く試み

このように、いま感じているこの感じ(=「体験過程」)から語る、ということが一致しているということ。では、クライエントとの関係の中で、体験過程から語るとはどのような事なのか。「一致」を概念的に理解するだけでは不十分で、果たしてわたしは普段、一致して他者とかかわりを持つことが出来ているのか。つまり、一致した態度を保持しているのか。youtubeでなんでもいいので、人が話している動画を見ることとした。そのとき、わたしに何が起こるのか。今回は、宮越大樹さんが、5分くらい話している動画を観つつ、自身の体験過程に注目。


『変わろうとしない相手』にどう関わるか【宮越大樹コーチング動画】

 

話を聴いていると、お腹・胸のあたりに、理解の感覚が蓄積していく感じがするのがわかる。そして、理解できない感覚、ついていけない感覚も、そこには生じる。動画を一時停止して、相手の言わんとすることを、自ら言葉を出して、自分なりに表現しなおすことで、「あぁ、そうか、そういうことだよな」と腑に落ち、次の言葉を受け入れる余地が生まれる。その感じは、動的なもの。これらを行う際、体験過程に照合していなくてはすることができない。おそらく、生身の相手を目の前にする時であれば、ついていけないもやもや感が生じた時など「あなたがおっしゃっているのは、こういう理解でいいですか」とか、「それはどういうことですか」と確かめることは、自身の体験過程にふれた応答の実例、ということになるのでないか。

 

まとめ

以下は、わたしの理解です。

クライエントに耳を傾ける際、聞き手は、自らの体験過程(感じの流れ)に触れている必要があります。その感じの流れをセンサーとして、クライエントに耳を傾け、そして、「そこ」から応答することが、「一致」している態度の表現だということだと思われます。

このような在り方は、何度も何度も思い返し、練習していく必要のあるものに思われます。この感覚、つまり、自身の体験過程に触れつつ相手の話に耳を傾けるという感覚。忘れないように、そして意識しなくてもできるように。

参考資料:ジェンドリンの「一致」論。セラピストの真実の自己表現

以下、ジェンドリンの論文―Gendlin, E.T. (1959). The concept of congruence reformulated in terms of experiencing. Counseling Center Discussion Papers, 5(12). Chicago: University of Chicago Library. *1―より、純粋性(誠実)についての該当箇所を抜き書き。

誠実なセラピストにおいては、この感じられた照合体は彼の表現の基盤として機能する。したがって、彼の応答は常に、その関係性を体験している現在の体験過程の何らかの側面を象徴化することとなる。

 

セラピストは継続的にクライエントの表現行動を体験し知覚する。セラピストの感じのプロセスは、体験の統合であり、これはクライエントについての現在の知覚を定め、統合すべく機能している。

 

誠実な応答は、セラピストの真実の自己表現であり得るが、またクライエントの世界についての[セラピスト側の]統合した知覚の表現でもあり得る。

 

「誓い」とソーシャルワーク プロフェッショナルであるということ

プロフェッショナルのprofessは、もともと宗教に入信するときの宣誓を表しました。そこから、厳かな誓いを伴う職業をプロフェッショナルと呼ぶようになりました。(p.62)
村山昇『働き方の哲学』Discover,2018,p.62

 

こうしたみずからが進んで利他の精神を誓い、みずからの能力を社会奉仕に使うことを喜びとする専門的職業人こそが、本来の意味でのプロフェッショナルです。(同上)

 

同書によると、技を駆使して高度なことが出来る人を「エキスパート」と呼びます(誓いは伴いません)。プロフェッショナルも高度な技を磨きますが、それは「誓い」を実現するためです。そこにエキスパートとプロフェッショナルの違いがあります。

 

そのような意味において、ソーシャルワークはまさしく本質的に「プロフェッショナル」な職業だと思われます。

 

なぜなら、ソーシャルワークは知識・価値・技術の創造的混合(ジョンソン、ヤンカ『ジェネラリスト・ソーシャルワーク』)だからです。ここで言う「価値」が、「誓い」に該当すると考えられます。

 

例えば、この「価値」には次のようなものがあります。いわゆる倫理綱領は誓いの言葉として読めます。

 

精神保健福祉士は、クライエントの基本的人権を尊重し、個人としての尊厳、法の下の平等、健康で文化的な生活を営む権利を擁護する(日本精神保健福祉士協会倫理綱領)
・われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する(社会福祉士の倫理綱領)

 

しかし、なぜ「価値」なのか。「誓い」なのか。価値観は多様であり、唯一無二のものはないのだから、専門職としてそのような価値観から自由であるべきではないのか。誓いを持つということは、専門職として、偏りを持つことを意味してしまうのではないだろうか。

 

このような批判に対してはわたしは暫定的にこう考えます。

 

「専門家たるもの特定の価値観から中立であるべきである、という主張そのものが、一定の価値を表明しているものであって、特定の価値観に加担にするものに他ならない。我々は、何らかの価値にコミットせざるを得ず、特権的な客観性や中立性を標榜することはできない。ゆえに、我々に必要なのは、我々の実践を導く特定の価値に自覚的であり、それを他者に対し、公開できる用意をしておくことである。そうすることによって、私たちは自らの限界をわきまえつつ、必要に応じて異なる価値観のものと対話し協同する可能性が生まれる。」

 

そういった意味でも、ソーシャルワーカーは自らの仕事において「誓い」に自覚的であることが必要であるように思います。ですからそれはやはり、「プロフェッショナル」な職業です。そして我々の職業は往々にして泥臭いものです。誓い(価値・理念)は天上の星のごとく崇高であっても。その泥臭い現場にありながら、理論は理論、現場は現場、と割り切ってしまうことなく「誓い」にふさわしい技や知識を磨きつづけ、現場でそれをパフォームするよう努めること。それがプロフェッショナルであるための条件だといえます。問うべき問いは「わたしはプロフェッショナルの名にふさわしい仕事をしているか。わたしの誓いは何であったか」。

 

村山昇『働き方の哲学』   

 

ジョンソン、ヤンカ『ジェネラリスト・ソーシャルワーク

プラグマティックな方法 ジェイムズ『プラグマティズム』

ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を読了しました。学問の方法論について示唆を受けたくて読んでいました。

ジェイムズは、1842年生まれのアメリカの心理学者・哲学者ですね。名前は平凡ですが、偉大な学者です。文章は率直で情熱的。

さて、理解したはずの内容をいざ説明しようとすると、きちんと理解できているのか不安になってきますが…。

以下は、いつものように、わたしなりの「読み」「解り」の整理と提示です。やはりこうして、まとめようと咀嚼していると、得るものは多かった気がします。

※以下、引用文は、すべて、岩波文庫のW.ジェイムズ(枡田・訳)『プラグマティズム』からのものです。

既存の概念理解の方法として

プラグマティックな方法とは、このような場合(注:ある観念について論争が果てない場合) に当たって、各観念それぞれのもたらす実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みるものである。(p.50 原文傍点あり)

これ、とても実用的であるように思われます。ジェイムズの提示しているこのガイドラインは、とらえどころのない概念や、命題にたいして取るべき、私たちの態度を示唆しています。

 

例を挙げると「こころ」。「こころ」とは何でしょうか。「こころがある/ない」とは何を意味しているのでしょうか。どこからとっかかればよいのでしょうか。ジェイムズに従うなら、「実際的な結果」を辿ってみることで解釈の道が開けてくるはずです。

 

試みに考えてみましょう。「石にこころがある」ならば、我々は簡単には、石を蹴ったりすることができなくなるかもしれません。「ぬいぐるみにこころがある」とするなら、ごみ袋に入れて簡単にすてることはできないでしょう。このように「こころあるもの」と判断することは「大切にあつかわれる」という「実際的な結果」ともないます。「こころ」それ自体は、指をさして示すことはできませんが、その観念がもたらす「実際的な結果を辿る」ことによって、(何かに)「こころがある」か「こころがない」かという観念の違いは明白に示されます。

 

この場合、「こころ」は「大切にされるべき何かである」「苦痛を与えるべきものではない」という含意があるものと考えられるかもしれません。そしてされにその解釈から展開させて、「こころとは感受能力」(何かを感じる能力)であると理解する道も開けてくるかもしれません。

 

上記の議論はあくまで、「プラグマティックな方法」の適用の実例にすぎません。ですから、議論の中身それ自体が適切かどうかはおいておいて、ここでわかったのは、「こころ」というとっつきにくい概念も、実際的な結果を辿ることで、理解する手がかりが見えてくる、ということです。

新しい概念を活用する方法として

再度引用します。 

プラグマティックな方法とは、このような場合(注:ある観念について論争が果てない場合) に当たって、各観念それぞれのもたらす実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みるものである。(p.50 原文傍点あり)

ここまでは、既存の概念を理解するための方法として、「プラグマティックな方法」を見てきましたが、新しく作った概念を活用するための方法としも、示唆されるものがあるように思います。

 

つまり、新しい概念を考案したとして(あるいは理論・仮説を構築したとして)それが何か意味をなすものなのかということは、その概念(理論・仮説)からわれわれの実際の生きている体験にどのような違いをもたらすか、を試金石とすればよい、という理解です。

 

 簡単な例を挙げると、「冷蔵庫に牛乳が入っているかもしれない」という仮説を真とすることは、のどが渇いたとき、わたしに冷蔵庫の扉をあけさせる、という違いをもたらすかもしれません。しかし、実際なかには何も入っていないという経験をするならば、「冷蔵庫に牛乳が入っているかもしれない」という仮説は、わたしにとってなんの報いもたらされないものなので、破棄されます。

 

仮説の真偽は、我々の行動、行動からもたらされる経験によって、破棄されたり、確証されていきます。何かが「真である」ことは、あらかじめ規定された事物の固定的な状態を示すのではなく、人によってそうだと確かめられ、形成されていく動的な過程にあります(社会構成主義なら、社会的に構成される、社会において生成される、と言うかもしれません。ジェイムスの場合は、これが社会的な相互作用過程であるとの明示はありませんが)。ある観念(概念・理論・仮説)は、それの含意するものごとの確証のプロセスを導くものであり、その観念の真偽は、そのプロセスの中で、生成されるものです。

 まとめ 「プラグマティックな方法」の援助実践での適用

さいごに「プラグマティックな方法」を援助実践の現場で適用すると、何がもたらされるか考えてみます。以下のようにまとめてみると、いたって常識なガイドラインだという印象になります。

  1. まず新しい「考え」(理論・概念・知識など)を学ぶ(または自分で思いついた際)際、それが援助実践にどのような違い(実際的な効果)をもたらすか考える。それにより、新しい考えの意味の理解が容易になる。
  2. 新しい考えが、援助実践にどのような違いをもたらすか吟味し、有用な違いをもたらすことが予想されるとき、その考えに基づいて実践する価値がある。
  3. ただし、考えの有用性は、験証されるべきである。

ここでいう「考え」は、「心理学的概念」でもいいし、「新しくできた社会資源の情報」でも、「同僚が言っていたこと」でも、自分で思いついた新・形容詞「ちづい」でも構わないはず。これによってあらゆる「考え」が活用可能になるのでないか。よし、このガイドラインを、試して験証してみよう。

ブリーフセラピーと催眠 『短期療法 解決の鍵』より


k-kotekote.hatenablog.com

 前回書いた記事の中で、気になっていた箇所がありました。

休憩の催眠的目的は「反応注意」(response attentiveness)――クライエントがたしかにセラピストの指示に注目する構え――をつくりやすくすることである。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、p.111)

という引用文の「催眠的」というキーワードです。

Q.1 de Shazerが上で言っている「催眠的」というワードの意味は何なのか?

Q2.ブリーフセラピー(短期療法)の源流の一つに「ミルトン・エリクソン」(現代催眠の父と言われる)の名が挙げられることがあるが、解決志向アプローチとエリクソンの「催眠」はどのように関係しているのか?

 

今回の記事は、この問いについて、Steve de Shazer『短期療法 解決の鍵』から読み取れる範囲で、現時点でのわたしの理解・解釈を提示する試みです。結論だけ知りたい方は「まとめ」をご覧ください。

 

短期療法はエリクソンの原理の洗練・発達であり、催眠性を持つようにデザインされている

あらためて本をめくっていると、示唆的な箇所がいくつか見つかりました。

要するに短期療法は、エリクソンの臨床的問題の解決原理を洗練し発展させたものとみることができる。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、p.14)

SFAは「解決志向ブリーフセラピー」と呼ばれることもあるように、ブリーフセラピー(短期療法)のファミリーに属します。よって、上の引用文によれば、SFAを実践するということは知らずのうちに、ミルトン・エリクソンの実践原理を踏襲していたことになります。たとえ、エリクソンの名を知らずとも。

 

また、短期療法と催眠については次のように言われていました(前回の記事の焦点となった引用文の少し前でした)。

公式のトランスを使うか使わないかにかかわらず、短期療法センターでの治療セッションは催眠性をもつようにデザインされている。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、p.109)

まとめると、短期療法はエリクソンの原理の洗練・発達であり、催眠性を持つようにデザインされている、と言えます。しかし、「催眠」とは催眠の術者が、相手の眼を閉じさせ、判断力を失わせて、怪しげな言葉をかけるものでないのか? わたしはSFAを実践していてそんなことをした覚えはない。ここでいう「催眠」とは?

「催眠」とは人と人との関係

催眠法は人びとのあいだのある種の関係を記述するのに使う一つのことばである。このことばは、術者と被術者とのあいだの相互関係の一部である「注意集中」(focused attention)を記述する。まったく受け身のひとに術者がなにかをほどこすということではない。催眠法に関するこのような見方はエリクソンの方法に由来している。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、pp.14-15)

「注意集中」と訳されていますが、"focused attention"とは、「焦点化された注意」とも訳することが可能でしょう。

人と人とが互いに関わり合うプロセスの中で、つまりコミュニケーションし合う中で、何かに「焦点をあて、それにじっと集中」することが起こる。そのような人と人との関係性を記述する際に「催眠法」という言葉が使われるらしい。

引用文だけでは、十分には理解することが難しいのですが、

"人が何かに「注意集中」することを伴うコミュニケーション(対人関係)”

の「意図的な活用」

「催眠法」と呼ぶ

とわたしは解することにします。重要なのは、催眠は人と人との相互関係(コミュニケーション)の一部であり、一方向的なものではないということです。あくまで「注意集中」は対人相互関係の一部として捉えられているのが興味深い。

催眠は普通の対話のように見える

そうだとするならば、以下のように言われるのもうなづけます。

 素朴な見学者なら、短期療法家とクライエントが催眠法を用いているとは見えないだろう。かれらのやりとりは、どちらかといえば普通の対話のように見えることが多いからである。(…)熟練の観察者なら、セラピストとクライエントがたがいに相手のことばを注意ぶかく聴いていることに気づくであろう。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、p.15)

どうやら、短期療法における「催眠性」とは、人が見てあっと驚くパフォーマンスになるような「催眠」とはイメージが異なるようです。

 

「催眠」という言葉が「何かについての"注意集中"が起こるような人と人との関わり合いを言うもの」であると解してよいのなら、SFAで、クライエントが過去の「例外」について述べたり、「奇跡の朝」について詳細に描写できるよう、セラピストが質問を重ねることも、「催眠的」であることになるでしょう。クライエントは質問によって、何かについて注意を集中し、その注意集中はクライエントとセラピストとの相互関係の一部として生起しているからです。

 

しかし、「催眠」という言葉の意味を、上のように理解すると、SFAはおろか、日常の何気ない会話でも、催眠は起こっていることになりはしないでしょうか。たとえば、「昨日夕飯何食べたの?」と誰かに聞かれ、「なんだったっけ? あ、そうそうカレー」「辛かった?」「んーいや…あそこのカレー屋は、なんかすっぱいというか…」と、問い・答えの会話の流れの中で記憶をたどるとき、人と人との関係性のなかで「昨日食べた夕飯」に「注意集中」することが生じているのですから、これも一種の催眠的な現象ということになるのではないでしょうか。そうすると、人はみな、無自覚なだけの催眠術師です。催眠的な現象は日常で無自覚に起こることであっても、それを意図的に活用するから、「催眠法」と「法」がつくのではないでしょうか。

「休憩」に「催眠的」目的があるということの意味

そうすると、冒頭の引用文の意味も腑に落ちてきます。

休憩の催眠的目的は「反応注意」(response attentiveness)――クライエントがたしかにセラピストの指示に注目する構え――をつくりやすくすることである。(Steve de Shazer(小野直広・訳)『短期療法 解決の鍵』誠信書房、p.111)

なるほど、「休憩」は、フィードバック・メッセージに注意集中するような、対人関係的状況を作る工夫であるわけですね。そして、セラピストが何かを語り、クライエントがそれに「注意集中」しているような「相互関係」が生ずるようにするから、「催眠性をもつようにデザインされている」という言い方になるわけですね。休憩は「催眠性をもつデザイン」の一例であるわけです。

まとめ

de Shazerの『短期療法 解決の鍵』を読みつつ、

Q.1 de Shazerが上で言っている「催眠的」というワードの意味は何なのか?
Q2.ブリーフセラピー(短期療法)の源流の一つに「ミルトン・エリクソン」(現代催眠の父と言われる)の名が挙げられることがあるが、解決志向アプローチとエリクソンの「催眠」はどのように関係しているのか?

について考え、理解・解釈を整理しました。

  1. 人と人が関わり合う中で、その相互関係の一部として「注意集中」がおこるようなコミュニケーションを「催眠的」と記述する
  2. SFA(短期療法)はもちろん、日常会話でも催眠的な会話は起こる。それは、派手なパフォーマンスになるような劇的なものとは限らない
  3. "人が何かに「注意集中」することを伴うコミュニケーション(対人関係)”の「意図的な活用」を「催眠法」と呼ぶ
  4. SFA(短期療法)では「催眠的」な相互関係(セラピストとクライエントとの)を意図的に活用する
 
 短期療法解決の鍵 作者: スティーヴド・シェーザー,Steve de Shazer,小野直広