ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

【本の紹介】『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編

『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編

コロナ禍とわたしたちの生きる社会、世界の在り方に関連した短い論考が納められた論集でした。

論考のタイトルの例は例えば、

  • 内橋 克人『コロナ後の新たな社会像を求めて』
  • 杉田 敦『コロナと権力』
  • 最上 敏樹『世界隔離を終えるとき』
  • 隅 研吾『コロナ後の都市と建築』

…など。

編集者の村上氏は、科学哲学・科学思想専門の方ですが、国際法専門、政治理論専門、仏教専門…など、異なる分野の総勢24名が、論を寄せています。

 

全部を読むのは大変だったので、わたしは興味を惹かれる論考のみ、目を通しました。

面白いと思ったのは、石井美保さんのセンザンコウの警告」という論考でした。

石井さんは文化人類学者。南インドの村などに調査研究に出かけたりされた方であるようです。

 

タイトルにある、「センザンコウ」というのは、動物の名前。このセンザンコウは、医薬品・食材として違法に取引され、絶滅が危惧される種族なのだとか。

www.wwf.or.jp

そして、新型コロナウィルスと高い割合で一致する遺伝子を持つウィルスが、このセンザンコウから見つかったのだそうです。だから、ウィルスの宿主となるセンザンコウを含む野生動物の取引市場が、ウィルスが世界に広まる媒介をはたした可能性もある、と。

 

ここで、石井さんがリュック・ド=ウーシュという人類学者の研究を紹介しています。それは、「キノボリセンザンコウ」(センザンコウにはマレーセンザンコウとかいろいろ種類があるようで、キノボリセンザンコウセンザンコウの一種ということのようです)という動物に、ザイールのレレ族がどのようにかかわってきたかという話です。

 

「キノボリセンザンコウ」は、全身が魚のような鱗に覆われ、木の上に住み、一度に一匹しか子供を生まない、哺乳類なのだそうです。魚のようなのに、哺乳類であり、しかも鳥のように木の上で生活する。不思議な生き物、という感じがします。

そして、

通常の動物分類にあてはまらないからこそ、レレの人々にとってセンザンコウは精霊動物として禁忌の対象となり、また祭祀の対象ともなる。

(『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編,岩波新書,2020年p.230。石井美保「センザンコウの警告」より)

 

具体的には、レレ族の人々は、この動物を、

  • 畏れ、狩りを禁じた
  • 儀礼の場では、その肉を食べた(女性の生殖力を増大させる力をもつとされたため、その力を摂り入れようとした)

つまり、レレのひとびとは、センザンコウを畏れ、距離を設けると同時に、その力を儀礼の場で摂り入れるというしかたでつながりを持とうとしてもいた、と。

 

これは、センザンコウに対して、密猟を行い、商品として取引し絶滅の危機にさらそうとするという態度とはまったく異なる態度です。節度なく、うかつに、センザンコウを人の世界で利用しようとしたばかりに、未知のウィルスという人の世界には存在しなかったものが、人の世にもたらされてしまったのなら…。

 

それゆえ、センザンコウは人と動物、人と自然との関係性の再考を促しているのではないか、と。

(…)センザンコウという名前は、レレの人々の禁忌と祭祀を思い起こさせることで、わたしたちがいま、どのような禁忌を自らに課し、どのような種間の倫理を創造すべきなのかを暗示する、ひとつの符牒、声なき警告であるように思われる。

同上、p.231

 

わたしが感銘を受けたのは、レレ族の生活様式の中に、ある種の智慧が存在したということ。それは、異界との関わりをどのように持つべきかという智慧です。「異界」と言ってみたのは、単に我々がふだん慣れ親しんでいる、人間の社会の外側、ということです。だからたとえば、いつクマが出没するかわからない山奥とかもそうでしょうし、どんなウイルスを持っているかもわからないコウモリが生息している洞窟も、ある種の「人間のとは異なる世界=異界」でしょう。

 

レレ族の人々にとって、センザンコウと言う存在は、「宇宙の縮図」「水と天と地の生物の特性を併せ持ち」「度を越して多産な世界での節度ある人間の生殖を象徴的に表している」(pp.229-230)。レレ族の人々の智慧は、単に人間内での倫理でなく、人間以外の存在への理解をも含めた、(コスモロジカルな。つまり人を含めた宇宙全体の理解に根差した)倫理というものがあり得るのだということを示してくれているように思いました。

 

異界からもたらされるものは、日常の秩序を脅かすものです。そういう意味で、「畏れ」というものは必要であるように思います。コロナという存在は、わたしたちの社会内の秩序を脅かすものでした。

 

しかし、それと同時に、異界からもたらされたものは、良くも悪くも、日常をゆさぶり、活性化するものでもあるということ。これは、コロナと言う存在によって、リモート(Zoomなど)の浸透、それによって気軽に距離を超えて、遠くの人が主催する研修に参加することが可能となった、出勤しなくても仕事をできるようになった、それに伴って居住地の選択肢が増えた、満員電車に揺られなくてよくなった…など、あたらしい生活様式が人々にもたらされたこと(もたらされざるを得なかったこと)が、その例です。現代においても我々は、いわば異界から力を得ている、ということなのでしょうか。

 

レレ族とセンザンコウの物語は、とても示唆的でした。