「バザーリア講演録」一章 精神医療は自由の道具か、抑圧の道具か
フランコ・バザーリアの講演録『自由こそ治療だ!』を読んでいます。前から気になっていた本だったのですが、ようやく手にとることができました。はじまってばかり、一章からかなり激烈で、読んでいて不穏な気持ちになります。一章のタイトル自体が、「精神医療は自由の道具か、抑圧の道具か」。
バザーリア曰く、精神科病院の中に入れば、目の当たりにするのは、「貧しき狂人たち」(患者)と裕福なものたち(治療者)の厳格な区分である、と。そして、「支配階級」にある治療者や権力者が、治療の方法を決めているのであるから、精神医学は自由なものではありえない、と。
この観点からすると、精神医学はその誕生から非常に抑圧的な技術であり、国家が貧しい狂人たち、すなわち生産性のない労働者階級を抑圧するために常々用いてきた技術なのです。 フランコ・バザーリア『自由こそ治療だ!』岩波書店p.20
当然沸き起こるのは、精神医学は病気を治療するものなのに、なぜそれが「抑圧」と呼ばれなければならないのか、ということ。
それについては多分、そもそも、何を病気とみなすかという病気についての定義とそれについての、扱い=治療の方法自体が、「裕福な者たち」によって決められている、という社会的構造を考えてみよ、ということなのでしょう。(わかりませんが、わたしはそのように解し(読み)ました。)何かを病気とみなすとき、暗黙の裡にそれを病気とみなすことを是とする社会規範を再生産していることになります。つまり人間は「本来どのようにあるべき」(健康)であるか、そして何がそこからの逸脱(病気。シェフの言う「残余的逸脱」)であるか、という社会的な規範を。
そして、「あなたは病気です」「だから〇〇という治療(入院含む)を受ける必要がある」とみなすとき、相手は「客体」であり、「主体」ではない。それに対して相手が「NO」と述べるとき、この患者は「病識がない」「治療に協力的でない」とみなされる。このようなことを「抑圧」と言っているのだとするならば、理解できる話です。あきらかに、わたしも抑圧する側の陣営に回っています。
しかし、精神医学という抑圧の技術を用いてきたのは国家であると、上の引用文でバザーリアは言うのですが、そこは、まだよくわかりません。日本の場合は、精神医学という抑圧の技術を用いるよう強いているのは、「国家」「権力者」「裕福なもの」というより、もっと曖昧模糊として偏在している、「世間の目」「みんな」(「みんなが迷惑する」というときの、実体なき「みんな」)なのではないか、という気がしています。まだ仮説にすぎませんが…。「世間の目」は、「みんなに迷惑をかけてはいけない」と常々ささやいています。そしてみんなに迷惑をかける人は、病院や施設にずっと入っていて仕方ない、そのほうが本人のためにもなる…などとささやいている気がします。日本で精神医療に関与しているわたしは、特権的地位にある人の代表というより、知らず、「世間」の代表となっていないか?と考えると、思い当たるところもある。
少し希望が持てるのは、次の文章です。
逆に医師が患者の異議を受け容れたり、医師が弁証法的な関係性の相手役になることを受け容れたりするなら、医学と精神医学は解放の道具になることを意味しています。 同上、pp.22-23
ここでは、患者は単なる客体ではない。弁証法的というのはdialecticですから、対話的dialogicという意味でしょうか。