ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

幸いに死ぬるということの確かな信念。7つの習慣とトマス・ア・ケンピス

およそ600年も前の西洋の宗教家、トマス・ア・ケンピスと、現代のかなり名の知れたビジネス書『7つの習慣』の著者、スティーブン・R・コヴィー氏が、よく似たことを述べているのを発見した。

死の間際にそんな風でありたいと願うような具合に、生きていこうと存生中も努めるものは、いかにも幸福な、かつ賢い人である。なぜというと、そういう人には、幸いに死ぬるということの確かな信念が与えられようからである。トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫、p.54

 

第2の習慣「終りを思い描くことから始める」は生活のさまざまな場面やライフステージに当てはまる習慣だが、もっとも基本的なレベルで言うなら、人生におけるすべての行動を測る尺度、基準として、自分の人生の最後を思い描き、それを念頭に置いて今日という一日を始めることである。スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』キングベアー社、p.118

コヴィー氏の「7つの習慣」

「第2の習慣」について、少し補足しておきます。

第2の習慣とは、「7つの習慣」の内のひとつ。

そもそも「7つの習慣」とは、スティーブン・R・コヴィー氏の提唱する、人生において「効果性」を高めるための習慣である。

(では「効果性」とはどのようなことか。それについては下で検討した。結局なかなかぴんと来ないのだけれど。↓)

k-kotekote.hatenablog.com

「第2の習慣」とは

以上のように、「7つの習慣」は、人生のあらゆる場面で、このような意味での効果性を高める習慣である。そして、第2の習慣「終りを思い描くことから始める」はそのうちの一つ。「ものごとに取り掛かる前に、まずは何が望ましい姿であるのか、というゴールから思い描くべし」。そのような原則である。

例えば、旅行を計画しているとする。旅行するには、様々なことを考える必要がある。予算はどのくらいか。飛行機か、船か。有給届はいつ職場に提出するか。しかし、何よりまず考えるべきなのは、「どこに行きたいか」とか「そこで何をしたい」ではないだろうか。つまり、「目的地・ゴール」の存在が、第一である。無論、予算や交通手段という要素も現実的には、重要な要素ではある。しかし、それらはあくまで目的を達成するための手立てにすぎない。

だから、まず「終わりを思い描くことから始める」。そしてそれを念頭において目の前の具体的な一歩を踏み出す。目的地の方向性を見失っていては、いくら懸命に歩き続けたとしても、望みの場所にはたどり着くことができない。

自身の葬儀を思い描く

ところで、「終わりを思い描くことから始める」を徹底するなら、旅行の例で言うと、本当の「終り」は旅行先の目的地ではなく、旅行から帰ってきたその時かもしれない。旅行が終わって、どんな体験ができ、どんな気持ちになっているとよいか。それが終着地点なのかもしれない。

そのようにつきつめて考えたとして、人生の終着地点とはどこなのだろうか。

「死んだとき」というのが、一つの答えではあるだろう。

そのために、コヴィー氏は、「人生の最後」すなわち「自身の葬儀を思い描くこと」をすすめている。自らが死んだのち開催されるであろう自身の葬儀に参列していると想定し、参加者たちにどのような言葉をのべてほしいか。生前どのような人物だったといってほしいか。そうしたことをイメージする。それによって、自分自身の内面にある「価値観」に触れ、それを明確化することができる。価値観というのは「大切にしたいこと」のこと。例えば、それはユーモアであったり、好奇心であったり、他者への思いやりであったりするかもしれない。

トマスとコヴィー氏の違い。

『7つの習慣』は、大きめの本屋さんのビジネスコーナーに行けばたいがい並べられているくらい有名な現代の書物であるが、600年も前に書かれた書物にも似たようなことが書かれているのは大変興味深い。改めて冒頭で引いたトマスの文章を引用する。

死の間際にそんな風でありたいと願うような具合に、生きていこうと存生中も努めるものは、いかにも幸福な、かつ賢い人である。なぜというと、そういう人には、幸いに死ぬるということの確かな信念が与えられようからである。トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫、p.54

「幸いに死ぬことの確かな信念」! これを絶えず保持している人は、道を誤ることはないだろう。

しかし、興味深い差異も存在する。トマスはこうも述べている。

万事につけて自分の終り(終着、最期のこと)を顧みなさい。また厳格な審判者(ヘブライ・10の31)の前にどのようにあなたが立つだろうかを思ってしなさい。その人に対しては隠されることは何一つなく、贈物でも気を和らげず、言いわけをも受けつけず、正しい裁きを与えられよう。ああ、この上なくみじめに、また愚かな罪人よ。お前は、すべての悪事を知っておいでの神に対して、どうこたえようというのか(ヨブ・9の2)。トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫、p.57

厳格な審判者として表象される「裁きの神」。日本で言うならば、「閻魔さん」ということになろうか。そら恐ろしいイメージである。すべての悪事を知り及び、厳格に審判を下す神を念頭におくこと。確かにこれも、「終りを思い描くこと」のひとつのバージョンではあるだろう。しかし、これは価値を実現する(のぞましいと思うことを主体的に行おうとする)ことよりも、回避的な生き方(罰や怒りを避けることを主目的として人生を方向付ける)を助長するのではないか。つまり「良いことをしようと良いことをする」のではなく、「叱られるのを避けるために良いことをする」生き方を。

 

ここに「厳格な審判者」方式と「自身の葬儀を思い描く」やり方との質的違いが存在すると思う。現代において、「厳格な審判者(としての神・閻魔さん)」の実在を信ずる人がどれほど多いか、私はしらない。しかし、仮に厳格な審判者が存在するとしても、その審判者は「叱られているのを避けるために良いことをする」人をきっと見抜くであろうし、それを良しとしないのではないだろうか。だとすれば、審判者による罰を恐れて、それによって行為を規定することは、結果として罰の回避を不可能とするだろう。

 

以上のような理由から、次のように言える。審判者が存在するにしてもしないにしても、自らが自らにとって厳格な審判者となり、かつ罰への恐怖によってではなく、ただ良きことをなさんとする意思のみによって、良きことをなすべきではないだろうか、と。