ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

無知と対話

なぜなら「無知の知」とは、換言すれば、
——自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟
ということである 
藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書(1998)、p.43

自己もまたあなたである

自己とは自己応答的な過程である。
自己は自己に対して語りかけ、それにたいする応答へと自ら耳を傾ける。例えば、今こうして文章を書いているこの瞬間にも、わたしはわたしに対して言葉を贈与しつつ、与えられた言葉に対してどのように感じているか、絶えず耳を傾けている。書くということは、同時に(自らが書いたものを)読むことであり、それは、語りと応答の往還的なプロセス、すなわち自己との対話であるとも言える。

そもそも言葉を語るということは、声を出して語る場合も心の内なる独語(「内心の声」)の場合も、その言葉を自分で聞くことでもあり、その言葉に他人が反応するのと同じように自分も反応することである。語り手が同時にその聴き手でもあるという意味において、言葉(ロゴス)は本来的に対話(ディアロゴス)的な本性――これを「ロゴスのディアロゴス性」と呼ぼう――を持っている。
藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書(1998)、p.64

そこにおいて、自己は一個の他者である。なぜなら、自己が自己へと返す応答は、特定の仕方であるよう統制し得るものでもなく、また必ずしも予期し得るものでもないから。その意においてわたしはわたしに対して無知である。わたしはわたしに対して「あなた」として呼びかけられるべき存在として出会うのだ。

 

例えば、何か落ち着かなくてそわそわして眠れない夜。わたしは「あなたとしてのわたし」に出会う。いくら、落ち着いてしっかりと休み明日へ備えるべきだと説いたところで、その落ち着かなさが言うことを聞いて静かになってくれるわけではない。その時わたしたちは「自らへと言い聞かせる」のではなく、「自らへと耳を傾ける」必要がある。対話とは、語りかけつつ、他者へと自らを開く。他者へと開かれつつ、語る。そのような出会いのシークエンスである。

 無知への習熟。わたしをあなたへと開く

そのような対話的出会いにおいて重要なのは「無知」であろう。

無知の姿勢とは、セラピストの取るひとつの構えであり、態度であり、信念である。つまり、セラピストはひとり特権的な知識を享受できないし、また他者を完全に理解することはできない。他者から常に「教えてもらう状態」を必要とし、言葉にされたことされないことも含めもっとよく知りたいと思う。このような態度であり、信念である。
ハーレーン・アンダーソン『会話・言語・そして可能性』金剛出版(2001)p.175

わたしは、あなたに対して無知であり、あなたはわたしにとって未知である。そう認めることが、自らが「あなた」へと開かれる可能性を生み出す。

対話における意味の創造とは常に相互主観的(間主観的)プロセスだ、とするポストモダンの前提にとって、無知の姿勢は最重要だ。それは、知っているとする立場をもってしては見えてこないものを可能にする。その可能性を拓くものの一つが対話である。ハーレーン・アンダーソン『会話・言語・そして可能性』金剛出版(2001)p.175 

そうだとするならば、わたしがわたしに耳を傾け、わたしと対話するためには、わたしはわたしに対する無知を認めることが重要である。「汝自身を知れ」。古代ギリシアの格言である。「汝自身を知る」上では、「汝の汝自身に対する無知を知れ」が伴うだろう。

なぜなら「無知の知」とは、換言すれば、
——自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟
ということである 
藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書(1998)、p.43

だから、わたしは、わたしに対して無知をみとめ、敬意をこめ「あなた」と呼びかけることから始めよう。それが自己との対話の実践の入り口となるだろう。