ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

あなた自身が選んだ道を歩くことを促すこと

セラピストの課題は、クライエントの目標に至るためのよい道筋だとセラピストが考える道筋を歩むようクライエントを指示することではなく、クライエント自身が選んだ道をクライエントが歩んでいくのを促すことである。
キャンベル・パートン『パーソン・センタード・セラピー フォーカシング指向の観点から』金剛出版、p.6

 あなた自身が選んだ道を歩くことを促すこと

これは、心理療法の文脈で語られているけれども、「セラピスト」を「わたし」、「クライエント」を相手(あなた)と置換して読んでみたい。つまり、セラピスト-クライエント関係という特殊な関係から、人間関係一般へと普遍化して読んでみるわけである。そうするとこうなる。

 

「わたしの課題は、あなたの目標に至るためのよい道筋だとわたしが考える道筋を歩むようあなたを指示することではなく、あなた自身が選んだ道を歩くことを促すことである。」

 

わたしの課題は、あなた自身が選んだ道を歩くことを促すこと…!

 

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他者との関わりは困難に満ちてもいる

「まったく人間関係に苦労していない」と言える方は、おられるだろうか。そうでない方は、人間関係で行き詰ったりストレスに感じている実際の相手を、脳裏に思い浮かべることができるはずである。

 

例えば、気の食わない指示をいちいち出してくる上司かもしれない。あるいは言うことを聞かない子どもかもしれない。それは人によってさまざまであるだろうが、個別具体的な現実の生身の他者である。上司や子どもという現実に関りを持っている、「その人」。「その人自身が選んだ道を歩くことを促すこと」などできるだろうか。言い方を変えるならば、自分にとって快くない「その人」の選択や生き方を尊重することなどできるだろうか。その人がこうすべきだと「私が」考える「よい道筋」ではなく、その人自身が選んだ道筋を歩むことを促す、とは…。

 

また逆にそもそも、自分自身の「選んだ道を歩くことを促す」ことが自分自身に対してできるだろうか。周囲からの期待や求められる役割などに惑わされて自分自身を見失っていないか。自らの歩みを信頼し、これを尊重し、困難や失敗、挫折を体験しても、にもかかわらずあたたかいまなざしを注ぎ続けることはできるだろうか。

 

他者の歩みと、私の歩みは、時に互いを妨げ合うこともありうる。
わたしたちは、いつも他者と共に関り合いながら生きており、それぞれの歩む道は互いに交差しあうから。それは快い体験ばかりではない。そのようなときに、他者の歩みを促しつつ、自らの歩みも同時に促すことは果たしてどのように可能なのだろう。

 

そう、それは極めて困難なのである。他者の歩みを促しつつ、自らの歩みも同時に促すことを、みずからの歩む道として選択するならば。

 

受け入れがたい相手を、変えたくなることについては、以前も書いた。

 

k-kotekote.hatenablog.com

 

人間尊重の稀有であることと、その道の険しさについて

先ほどと同じ引用文に戻ろう。

 

セラピストの課題は、クライエントの目標に至るためのよい道筋だとセラピストが考える道筋を歩むようクライエントを指示することではなく、クライエント自身が選んだ道をクライエントが歩んでいくのを促すことである

キャンベル・パートン『パーソン・センタード・セラピー フォーカシング指向の観点から』金剛出版、p.6

 

これを実現することは決して簡単なことではない。セラピスト(わたし)はクライエント(相手。上司、子ども…)の話を「うん、うん」とただ聞いていればいいわけではない。それでは「相槌マシーン」と揶揄される。本当のところ、わたしは他者の話を「ただ聞く」ということがそもそもできないのである。なぜなら、わたしは相手の歩みを心から尊重することのできない自身に気づくからだ。「本当に、ただ聴く」ということは生半可なことではない。何かが始まるとしたらそこからであるかもしれない。

 

私は知っている。「本当に、ただ聴く」ことのできる人のどれほど稀有であるかということを。そして、そんな人がいてくだされば、どれほど援けになるかということを。

 

そのようにして他者と共に在ることを志す道、それはじっさいのところ困難な道なのである。「クライエント自身が選んだ道をクライエントが歩んでいくのを促す」という一見、生易しく無力な道の多大な険しさと革新性、そこを行くための決意の必要性を、わたしはここに感じる。

 

私が最も充実を感じるのは、私が日没の美しさを心からいとおしむように、目の前にいる人を心からいとおしんでいる時です。その人をありのままに受けとめるなら、日没の光景と同じように素晴らしいものです。私たちが日没を心からいとおしむのは、太陽を思い通りに動かせる等と思ってもみないからでしょう。(…)日没を自分の意志で動かそうとは思いません。陽が沈む様を、畏敬をこめて見守ります。これと同じように、同僚、息子、娘、孫たちを見守るのが私は最高に好きなのです。

カール・ロジャーズ『人間尊重の心理学[新版]』(2007)創元社、p.20