ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

受容・弱さ・悪①

クライエントが社会的に容認が難しいことをしたとしたら。「悪い」ことをしたとしたら。たとえば、他者への暴力、約束を破ること。クライエントにどのようにかかわるべきか。何も言わない。容認する。注意する。しかる。説得する。議論する。…?


このような場合における援助的かかわりを考えるうえで、いくつかの文献を改めて読み返しました。(記事は何回かに分けて書きます)気になっている箇所を抜き書きし、走り書きしながら試験的に考察しています。

 

◎参照していく(予定)文献

バイスティック『ケースワークの原則』
デイブ・ミァーンズ、ブライアン・ソーン『パーソンセンタード・カウンセリング』
河合隼雄『こどもと悪』
ジェンドリン『フォーカシング』『セラピープロセスの小さな一歩』『フォーカシング指向心理療法
子安美知子『エンデと語る』

 

重要な問いは、
1、わたしにとって不愉快なクライエントの行動や態度などをわたしはありのままに認識しつつ、相手の人間としての尊厳と価値を尊重することができるか。そのようなクライエントに対して、好ましいとわたしが感じるクライエントに対するのと同じように、真実に敬意をもって接することができるか。
2、そもそも「悪い」とはどういうことか。


受容とは

まずは、バイスティックを読み返す。とくに『受容』『非審判的態度』のあたりを。以下、バイスティック(尾崎ら訳)『ケースワークの原則』誠信書房、1996より引用。あらためて読み返してみると、すごいことがいろいろ書いてある。

いわゆる「受容」の原則。受容とは何か。バイスティックの述べることに耳を傾ける。

「援助における原則の一つである、クライエントを受けとめるという態度ないし行動は、ケースワーカーが、クライエントの人間としての尊厳と価値を尊重しながら、彼の健康さと弱さ、また好感をもてる態度ともてない態度、肯定的感情と否定的感情、あるいは建設的な態度および行動と破壊的な態度および行動などを含め、クライエントを現在のありのままの姿で感知し、クライエントの全体に係わることである」(p.114)

クライエントのあらゆる側面、それが「良い」ものでも「悪い」ものでも、そのありのままの姿を感知し、その全体に係わる(そもそも「悪い」とはどういうことか。これについては、後述の河合の『こどもと悪』を参照)。根底には、クライエントの人間の尊厳と価値の尊重が、横たわっていることがわかります。ここで、重要なのは、人間の尊厳と価値の尊重という口当たりのよい言葉がどこまで、わたしの身に落ちているか、ということです。

それが顕著に問われるのは、わたしにとって不愉快に感じられたり、社会規範から逸脱するような行動をとる他者に遭遇するときでしょう。「尊重」は単なる口先のお約束事やお題目に終わらせるべきものではない。そのとき問うべきは、わたしにとって不愉快なクライエントの行動や態度などをわたしはありのままに認識しつつ、相手の人間としての尊厳と価値を尊重することができるか、です。そのようなクライエントに対して、好ましいとわたしが感じるクライエントに対するのと同じように、真実に敬意をもって接することができるかでもあります。(⇒あとでジェンドリンの「内側で闘っている人」を参照。)それはとても困難な課題に思われます。

 

自分自身の内的な嫌悪感や忌避感を隠蔽し、そのようなものがないかのように親しげに接することはできるかもしれませんが、それは「見せかけ=いいフリこき」にすぎません。ここでは内的な資質が問われています。このような時、とりくむべきはまず忌避感や嫌悪感を持っている自分自身を認めるということではないか。他者を尊重できない・敬意を持つことができない自分自身の限界にまず出会うということ。つまり自分自身のthe real(現実)を認める(受容する)ということ。バイスティックも、受容を妨げるのは、自己理解の欠如であると言っています。

 

受容は許容ではない

また、次の点が極めて重要です。他者と共に生きる社会的存在である私たちは、個人への深い尊重と共に、他者への配慮を欠くことはできない。

「つけ加えておかなければならない点が一つある。それは、逸脱した態度や主義あるいは行動を示すクライエントをありのままに受けとめるということは、決してその逸脱に同調し、それを許容することではないという点である」(pp.112-123)

受容とは許容ではない。受容することは、クライエントの行動をそのまま容認することではない。クライエントの社会的に容認不可能な行動を、許容・容認することが、受容ではない。社会的に容認不能な行動を容認しないことと、受容の原則は矛盾しない。

 

バイスティックの信仰。弱さによる尊敬

次の文章には、バイスティックの信仰が表明されている。

「クライエントを受けとめるというケースワーカーの態度は、人は誰も神との関係において生まれながらの尊厳と価値を備えており、その尊厳は、個人の弱点や失敗によって決して損なわれるものではないという哲学的な確信から生まれたものである」

バイスティックにとって人間の「生まれながらの尊厳と価値」は、「神との関係」に基礎づけられているようです。たとえ、その人が、どれほどの過ちを犯したとしても、その人の尊厳は決して損なわれることはありえない、という。わたしたちは、自らの欠点や過ちを認めず、防衛的に「嘘」を言い続けるそのような相手を(あるいは自分自身を!)価値あるものと認めることができるだろうか。過ちを認めず、偽り続けること自体が「弱さや失敗」でもある。そのような人間の側面を、ありのままに感知し続けてなお、その相手の価値や尊厳を認め、畏敬の念をもち続けられるだろうか。次の引用で、バイスティックは「弱さや失敗」を理解することによって、尊敬の念はむしろ高められるというが、これが真実であるならば、偉大な逆説です。

「クライエントを受けとめるためには、ある種の愛が必要である。この真の愛のなかでこそ、二人の人間は互いに知り合うことができる。つまり二人は、この愛のなかでこそ、それぞれの弱さと健康さ、成功と失敗など、互いにありのままの姿を理解し合うことができる。そして、弱さや失敗を知り合ったとしても、互いの尊敬の念は維持されるばかりでなく、むしろ高められるのである」(pp.137-138)

リッチモンドは、『ソーシャルケースワークとは何か』で、パーソナリティに対して直感的に畏敬の念をもつこと、これがワーカーの資質にならねばならないと述べていることを想い出す。

 

非審判的態度。裁くのでなく理解する。しかし価値基準を放棄しない

次は、「非審判的態度」について述べる章から。

ケースワーカーがクライエントの行動を評価する動機や目的は明確である。クライエントを裁くことではなく、理解することが目的である。ケースワーカーはクライエントの行動が社会の一般的な基準や価値観とどの程度異なっているのかに関心をもつべきである。ただし、その関心は、クライエントに難癖やいいがかりをつけるためのものであってはならない。ケースワーカーはクライエントが現在や将来にわたって、より良く生きられるよう援助する一環として、彼らの現実を理解しようとするのであり、そのためにクライエントの行動に関心を寄せるのである」(pp.148-149)

後半で述べられている「彼らの現実を理解しようとする」とは、人のありのままの姿を認識する「受容」ともつながるところであるから、非審判的態度と受容が内的な連関をもっていることがここからわかる。援助を目的とする理解においては、ワーカーはクライエントのありのままの姿を受容し、そこに審判はともなわない。

非審判的であるとは、世の中の価値基準を無視することではない。世の中に価値基準が存在することは、クライエントの生きる現実を構成する要因なのだから、それを無視することはできない。しかし、ワーカーの役割は、世の中の価値基準に照らして、クライエントを有罪か無罪か審判することではない。「より良く生きられるよう援助する」ことがワーカーの役割。


受容は、人間の尊厳と価値の認識を根底に置きつつ、良い面も悪い面も、あらゆる側面をありのままに認め、他者の全体を肯定的に配慮する態度だと言えようか。ロジャーズは、「受容」のことを「無条件の肯定的関心」unconditional positive regardと表現した。以上は、バイスティックを主に見てきたが、次は、パーソンセンタードの立場から。

 

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