ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

受容・弱さ・悪②

 

k-kotekote.hatenablog.com

受け入れがたい他者とであうとき。援助的な関りとは。前回の記事では、バイスティックを見てきました。

今回は、ロジャーズと、ジェンドリンから。受容の「無条件性」と、「内側で苦闘するその人」がキーワード。

デイブ・ミァーンズ、ブライアン・ソーン『パーソンセンタード・カウンセリング』
ジェンドリン『フォーカシング』『セラピープロセスの小さな一歩』『フォーカシング指向心理療法

受容=無条件の肯定的関心

 「この態度(注:無条件の肯定的関心)を備えたカウンセラーは、クライエントの人間性に深く価値を置き、クライエントのいかなる特定の行動によってもその価値づけが偏ることはない。この態度は、カウンセラーのクライエントに対する一貫した受容とクライエントへの絶え間ない暖かさに表される。」(デイブ・ミァーンズ、ブライアン・ソーン『パーソンセンタード・カウンセリング』ナカニシヤ出版、2000、p.73)

重要なのは、この態度の「無条件性」です。「○○だから(という条件ゆえに)受容する」のではない。

「たとえどのような条件であっても」肯定的関心を持つという一貫性が、この態度の凄さだとつくづく思います。受容というのは、生易しいものではない。

「治療を熱心に受け、援助者に変わらない尊敬を示すクライエントに価値を置くことは容易であるが、繰り返し自滅的であり、自分自身を価値のないものとして見、他人をさかんに操作して損害を与え、あるいは援助者への直接的な攻撃で自分の傷つきやすさを隠しているクライエントの場合に、その態度はさらに挑戦を受けることとなる」(デイブ・ミァーンズ、ブライアン・ソーン『パーソンセンタード・カウンセリング』ナカニシヤ出版、2000、p.73)

価値を置くことが難しい「にもかかわらず」深く価値を置き続ける。(「にもかかわらず」については、後述の河合は「愛のはたらき」として、エンデは「超自然の徳」として、述べている。)美しい人、賢い人、親切な人、このような人たちに敬意を払うことは容易です。しかし、「受容」という態度は、受容することが難しい人に出会う時こそ、その真価を顧みなければならない。嘘をつく人。他者を非難ばかりしている人。盗みを働く人。などなど。なぜなら、受容はその無条件性にその本質があるからです。

受け入れがたいとき。中で苦闘しているその人。

しかし、受け入れがたい人に出会ったとき、どうすればよいのか。受容的な態度が重要なのは承知しても、他者を受容できない私に出会うではないか。ジェンドリンは、実践的な示唆を幾度にもわたって提供してくれます。

 

「もし相手の人の不愉快な性質を受け入れることが難しいときは、相手の人が内部でそうした性質にぶつかって非常に困っていると考えてみてください。普通こうした不愉快な性質そのものに対して内面で戦っていると考えればその人を、たやすく受け入れることができます。もしそのようにして聞いていれば、やがてあなたは、その人を発見するでしょう」(ユージン・ジェンドリン(村山ら)『フォーカシング』福村出版、1982,p.161)

 


「学生時代に私が教わったことでもっとも役立ったのは、「その中にはいつも人がいる」ということである。乳児でも、お年寄りでも、どんなに無価値に見える人でも、愚かに見える子どもでも、その中に誰かがいる。それは普通、自分の内外の諸事情(content)をすべて抱えながらも(それにもかかわらず)どうにか生きていこうと必死で闘っている人である」(ユージン・ジェンドリン(村瀬ら訳)『フォーカシング指向心理療法(下)』金剛出版、1999、p.479)

「ロジャーズの言う、セラピーの3つの「必要十分条件」について、私はいろいろなセラピストと話し合ってきた。共感については理解される。しかし、純粋であることと無条件の積極的関心を持つことがどうすれば両立できるかという問題は議論の種になることが多い。クライエントは愛そうにも愛せないところをたくさん持っており、それを純粋に肯定的に見るなどということはとうていできない。しかし、私は純粋性と無条件の肯定の間に矛盾は感じない。なぜなら、クライエントの困ったところではなく、前述の、その中で必死に戦っている人に対して無条件の肯定的な関心を向ければよいからである。その中にいる人もその同じことで困っているのである。常にそれを抱えながら、その問題にもかかわらず、必死で生きようと奮闘しているのである。内側で戦っている人を感じることはそれほど簡単なことではない。しかし、私はここに矛盾はないと述べたい」ユージン・ジェンドリン(村瀬ら訳)『フォーカシング指向心理療法(下)』金剛出版、1999(pp.479-480)

 

「しばしば私は、こうしたすべてのことと「苦闘している」ある内面の個人というものを想像しなければならない。こうしたことをして後、何カ月も経ってから初めて私はその人を愛し、知るようになるのだ。」(ユージン・ジェンドリン(池見ら訳)『セラピープロセスの小さな一歩』金剛出版、1999、p.226

そう、ここですくわれるのは、ジェンドリンでさえ、「"何カ月も経ってから"」初めてわたしはその人を愛し、知るようになると述べていること。愛というのは、一時的な感情ではない。愛とは、努力を伴う内的行為なのだと思う。

 

 

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