ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

「誓い」とソーシャルワーク プロフェッショナルであるということ

プロフェッショナルのprofessは、もともと宗教に入信するときの宣誓を表しました。そこから、厳かな誓いを伴う職業をプロフェッショナルと呼ぶようになりました。(p.62)
村山昇『働き方の哲学』Discover,2018,p.62

 

こうしたみずからが進んで利他の精神を誓い、みずからの能力を社会奉仕に使うことを喜びとする専門的職業人こそが、本来の意味でのプロフェッショナルです。(同上)

 

同書によると、技を駆使して高度なことが出来る人を「エキスパート」と呼びます(誓いは伴いません)。プロフェッショナルも高度な技を磨きますが、それは「誓い」を実現するためです。そこにエキスパートとプロフェッショナルの違いがあります。

 

そのような意味において、ソーシャルワークはまさしく本質的に「プロフェッショナル」な職業だと思われます。

 

なぜなら、ソーシャルワークは知識・価値・技術の創造的混合(ジョンソン、ヤンカ『ジェネラリスト・ソーシャルワーク』)だからです。ここで言う「価値」が、「誓い」に該当すると考えられます。

 

例えば、この「価値」には次のようなものがあります。いわゆる倫理綱領は誓いの言葉として読めます。

 

精神保健福祉士は、クライエントの基本的人権を尊重し、個人としての尊厳、法の下の平等、健康で文化的な生活を営む権利を擁護する(日本精神保健福祉士協会倫理綱領)
・われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する(社会福祉士の倫理綱領)

 

しかし、なぜ「価値」なのか。「誓い」なのか。価値観は多様であり、唯一無二のものはないのだから、専門職としてそのような価値観から自由であるべきではないのか。誓いを持つということは、専門職として、偏りを持つことを意味してしまうのではないだろうか。

 

このような批判に対してはわたしは暫定的にこう考えます。

 

「専門家たるもの特定の価値観から中立であるべきである、という主張そのものが、一定の価値を表明しているものであって、特定の価値観に加担にするものに他ならない。我々は、何らかの価値にコミットせざるを得ず、特権的な客観性や中立性を標榜することはできない。ゆえに、我々に必要なのは、我々の実践を導く特定の価値に自覚的であり、それを他者に対し、公開できる用意をしておくことである。そうすることによって、私たちは自らの限界をわきまえつつ、必要に応じて異なる価値観のものと対話し協同する可能性が生まれる。」

 

そういった意味でも、ソーシャルワーカーは自らの仕事において「誓い」に自覚的であることが必要であるように思います。ですからそれはやはり、「プロフェッショナル」な職業です。そして我々の職業は往々にして泥臭いものです。誓い(価値・理念)は天上の星のごとく崇高であっても。その泥臭い現場にありながら、理論は理論、現場は現場、と割り切ってしまうことなく「誓い」にふさわしい技や知識を磨きつづけ、現場でそれをパフォームするよう努めること。それがプロフェッショナルであるための条件だといえます。問うべき問いは「わたしはプロフェッショナルの名にふさわしい仕事をしているか。わたしの誓いは何であったか」。

 

村山昇『働き方の哲学』   

 

ジョンソン、ヤンカ『ジェネラリスト・ソーシャルワーク