ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

インスーと東洋の伝統。わたしは他者を変えようとしないでいられるか。

ソリューション・フォーカスト・アプローチを生みだしたBFTC(短期家族療法センター)の実践における発見として、「クライアントを変えようと考えない」という逆説が存在するようです。これは、老子の「我れ無為にして民自ら化す」に重なる部分と言えるかもしれません。「支援者は、クライアントを変えようとしないでいられるか」という問いが、実践上の大きな挑戦として感じられてきます。

 

インスーと東洋の伝統

私は、東洋の伝統と世界観によって育てられ、養われてきましたので、その後に受けた西洋の科学的教育・訓練を用いて東洋の価値観を理解しようとしてきました。(…)本書に述べられた展望、哲学、実践の技法は私に深く根差した文化的背景の表れです。(ピーター・ディヤング、インスー・キム・バーグ(桐田ら訳)『解決のための面接技法 第四版』金剛出版、2016、日本語版(初版)への序) 

ここで、インスーが述べている、「東洋の伝統」「東洋の世界観」「東洋の価値観」というのはいったい何なのでしょうか。明確に書かれているわけではないから、ほんとうのところは分からないのですが、同書で述べられている以下のことばを読んだとき、ふと、老子を想い出しました。

逆説的と思われるかもしれないが、BFTCで観察した研究者たちは、臨床家がクライアントを変えようとすればするほど、クライアントは自分を変えようとする臨床家の質問が自分の自由や選択肢を狭めることを直感的に感じとり、変化への意欲を失っていくことに気づいた。彼らが到達した結論は、臨床家は「自分がクライアントを変える」とは考えずに、クライアントに敬意をもち、知らない姿勢で質問をし、クライアントを「彼らが求めていること」、「彼らの生活のなかで起こりうること」、「それらを起こすための方法」について臨床家に伝える立場に立たせるときに、非常に有効な働きができるというものだった。(同上、p,161)

「 支援者(カウンセラー、セラピスト、ワーカー…)がクライエントを変える」のではない。「変えよう」とするほど、変化の可能性が閉ざされていく。だから、「変えよう」としない。「変えようとしない」とき、支援者は、かえって有効な働きができる、ということです。「相手を変えようとせず、相手から教えてもらう」というある意味受動的な立場に積極的に立つことが、かえって「有効な働き」であるというのは、見事な逆説という他ありません。

老子』57章。我れ無為にして民自ら化し…

ちなみに、思い出した老子のことばはこれです。

我れ無為にして民自から化し、

我れ静を好みて民自ら正しく、

我れ無事にして民自ら富み、

我れ無欲にして民自ら撲なりと。『老子』(57章)

「化」という字は、「教化」「感化」と解されるようですが、「変化」と解してみたら面白い。すなわち、「人が無為(相手を変えようと人為を働かない)であって、相手は自ずから変化する」と。そうすると、上の「クライアントを変えようと考えないほうが、かえって有効な働きができる」という見解との重なりを見ることができます。

ロジャーズの老子

さて、この老子の言葉、実は、カール・ロジャーズを通して知りました。『新版 人間尊重の心理学』(畠瀬直子訳、創元社、2007、p.38)では、このように引用されています。これは、フリードマンによる、老子の英訳がロジャーズに引用され、それを畠瀬さんが翻訳して、日本語になっているわけですが、おそらく老子の57章だと思われます。最後にこの美しい翻訳を紹介します。

私が確信している事柄の多くを要約しているのは、私の大好きな老子の言葉であります。

 私が他者に干渉しないなら、彼らは自分のことを自分でする

 私が他者に命令しないなら、彼らは自らの行動をおこす

 私が他者に説教しないなら、彼らは自ら進歩していく

 私が他者に押しつけをしないなら、彼らは自ら自身になる。

                      (フリードマン、1972)

この表現は簡略化しすぎているとは思いますが、西洋の文化がいまだ味わったことのない真理を含んでいると思います。

重要な問いはこうです。すなわち、「わたしは他者(クライアント)を変えようとしないでいられるか」。また、変えようとしないでいられるということは、「相手さんに変化を"まかせる"」「相手さんの変化する動きに"ゆだねる"」「相手さんの変化する力を"信じる"」ということでもあるかもしれません。これは、実践上、大きな挑戦を感じさせるものです。