ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

受容・弱さ・悪③

 

k-kotekote.hatenablog.com

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バイスティックは、受容は許容ではないといっていたのを見ました(前々回の記事。「受容・弱さ・悪①」)。人間は許容しがたい一面をもつことは事実です。そのような許容しがたい人間の一面を「悪」と名指すのだとして、許容しがたい人間の一面の様相とはどのようなものでしょうか。また、許容すべきであること、そうでないことを判別するものは何なのでしょうか。私たちはもはや単一の価値体系を信奉していない以上、非常に判断が困難な状況にさらされているのではないか。

河合隼雄『こどもと悪』

 

「悪」をめぐる状況の困難さ

援助場面での価値判断をめぐる状況は複雑で、人たちで割り切れるほど簡単なものではありません。例えば、


 ・悪だから排除すべしという論理ではないこと。
 ・他方で、一定の破壊の度合いを超え、取り返しのつかない「関係の解体」(根源悪)を招く事象が存在すること。
 ・善悪というのは時代・文化に相対的であると言いつつ、たとえそれが相対的であったとしても、その時その文化においては確かに通用している善悪の中に私たちは生きているということ。
 ・単一的な価値のシステムによりかかることもできないこと。
 ・価値のシステムは、すでに存在するものであると同時に、作り変えることのできるものでもあること。適切なことが、適切でなくなりもするし、適切でないことが適切になることもあることを私たちは経験する
 ・このような複雑な哲学的思考をする余地もなく、判断を迫られる場面が現実には多いこと。


などが考えられます。

現時点では、これらの点について明快な答えを提示することがわたしにはできない。とはいいつつ、日々他者と接していて、他者と共に生きる現実の中で「適切な事」「適切でない事」を判別し、ある程度のコンセンサスも共有している部分があることも事実です。そして「適切でない事」をする他者に出会う時、困難を覚えます。

 

また、今回河合先生の本を読み返して、「おぉ!」と思うところもありました。

悪の様相を言い表すもの

悪とはいったいどのようなものか。悪の様相を言い表すもの。河合隼雄先生はそれを「関係の解体」と言います。

「いろいろな悪の様相を考えると、そこに何らかの「関係の解体」が存在していることがわかる」(p.51)

例えば、嘘、いじめ、盗みなどを考えてみると、これら通常許容されず、悪いとされるものは、他者との関係の解体という様相を含むことは、明らかです。

人と人との関係性という観点から「悪」を定義することは、「人間の社会性」(ブトゥリム)を価値前提のひとつとするソーシャルワークにとっても、実用的な視点を提供してくれるように思われます。関係の解体を招き得るクライエントの側面は、ありのままの現実として受容される必要がある。しかし、そのような側面が許容・容認されるわけではない。が、そのような側面をもつことによって、相手が裁きにかけられ排除されるわけでもない。そのような側面を持つことによってクライエントの価値や尊厳がそこなわれるわけではない。

 

関係の回復。人をつなぐ悪。

次の引用文は、悪をもたざるを得ない我々の人間の関係の回復について述べられています。

「根源悪は厳しく拒否しなくてはならない。にもかかわらずそれを犯した人間と関係を回復すること、そこに愛ということがはたらくのではなかろうか」「大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。しかし、そのことと子どもとの関係を断つこと、つまり悪人としての子どもを排除してしまうこととは別のことなのである。自分自身も人間としての限界をもった存在であるという自覚が、子どもたちとの関係をつなぐものとして役立つのである。そして、そのような深い関係を背後にもって、悪も両義的な姿を見せてくると思われる」河合隼雄『子どもと悪』岩波書店、1997,pp.58-60

悪は、「関係の解体」として捉えてみることができるのでした。しかし、そのような悪を犯した人間が(と)「関係を回復する」ということがありうるのだという。悪をなかったことにして、あるいは見ないふりをして、関係を継続するのではない。そうではなく、悪を悪として深く認識しつつ、それにもかかわらず、関係していくことをやめない。ここに、「にもかからず」という愛の働きが現れている。「愛」は、努力を伴う内的行為だと、ジェンドリンを読んできた記事で言いました(受容・弱さ・悪②)。ここでは、愛は逆説である。「であるがゆえに愛する」のではない。

また、ここで興味深いのは、悪の自覚が、むしろ人と人とをつなぐものとして有益な働きを担っていることです。バイスティックは「弱さや失敗」を理解することによって、尊敬の念はむしろ高められると述べていました(前々回の記事)。弱さや失敗、関係の解体としての悪は、実は人と人が結ばれるうえでの重要な役割を担ってもいるようです。