ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

「弱さ」をそれ自体として肯定すること。「弱さ」と「強さ」。価値の転倒。

通常の価値。強さと能力が評価される

ドラッカーの述べることは極めて常識的だ。

人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。
 しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みのゆえであり、能力のゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。(ドラッカー『エッセンシャル版 マネジメント 基本と原則』上田訳、ダイヤモンド社、2011、p.80)

強みこそが価値あるものであり、弱みはそうではない。弱さは中和されねばならない。強いもの、賢いもの、美しいもの、器用なもの。こうした人たちが評価されるのは、当然だ。

体が弱いもの、知識や技術に乏しいもの、不衛生なもの、感情的で周囲を不愉快にするもの。このような人は評価されない。「弱さ」は克服の対象である。健康こそ善であり、賢く、さまざまなことができ、清潔で美しく、他者に共感的で協調することができ、周囲に利益を与えることができるようになるべきである。

…という風に考え、人を雇うのが、「強みゆえであり、能力のゆえ」であるならば、色々な意味においてこのような「弱さ」を持つ人が雇われることのないのは、当然の帰結だということになる。しかし、そうした常識的な観点で定義される「強さ」「能力」を持つ人々ばかりではない。ドラッカーの言うように「人は弱い。悲しいほど弱い」。

福祉の対象となる人びと

見田によると、「福祉」の対象となる人びとは、次のような人々である。

「福祉」という、現代の「豊かな国々」のシステムが対象とする人びとは、労働する機会のない人びとと、労働する能力のない人びとである。後者には、傷病者、心身障害者、児童と高齢者がふくまれる。(見田宗介現代社会の理論』岩波新書、2018、p.112)

「労働する能力」は、単に作業工程をこなす技術だけを指すわけではないだろう。清潔を保持し、整容をきちんとして出社すること、怒りや不満があってもそれなりに周囲の人たちとやっていけることなどなど。労働とは社会的な営みであるから、単に作業工程をこなすことができることだけが、労働する能力ではない。様々な意味で「弱さ」を持つ人が福祉というシステムの対象の一部になっていると考えられる。

「強さ」「能力」に価値を置くものさしを採用する限り「福祉」の対象となる人たちは、評価を受けることが非常に困難になる。

たとえば、「強く健康である」ことが価値とされるとき、「病気がちである」ことは価値とされない。「清潔で美しい」ことを価値とするとき、「汚れた服を着ておしっこのにおいがする人」は、価値づけられなくなる。あるいは「どんな人とも強調し、感情的になることがない」ことが評価されると「人の好き嫌いが激しく、気に入らない人の批判が絶えずいつもだれかと口論になる人」は評価されない。

体が弱いもの、知識や技術に乏しいもの、不衛生なもの、感情的で周囲を不愉快にするもの…と言ったような人間的「弱さ」を持つ人たちは労働すること、そしてまた(労働を通して)社会に「居る」場所を持つことに極めて困難を持つことになる。

そうした「弱さ」を抱えた人は、周囲の人々から、排除される、避けられる、無視される、道徳的非難の対象になる、良くて指導や教育の対象になる、ということが起こりやすいことは想像に難くない。

聖書。弱く見える部分がかえって必要とされる

聖書(以下はパウロ)の教えが、「弱さ」について論じていると考えるなら、これは非常にラディカルだ。

「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(…)神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(『聖書』新共同訳。コリント信徒への手紙12章21節から26節)

「体」とは、我々人間の共同体(コミュニティ)のことを言っている。「弱さ」を抱えた人を(あるいは自分の中にある「弱さ」)を「要らない」と言うことはできない。それがかえって必要なのだという。これはものすごい可能性をわれわれに示してくれているのではないか。どういうことなのだろうか。

弱さの文化。べてるの家

べてるの家」にはおどろくべき弱さの文化がある。

「弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある――このように、べてるの家には独特の「弱さの文化」がある。
 「強いこと」「正しいこと」に支配された価値のなかで「人間とは弱いものなのだ」という事実に向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。そんな暮らしの文化を育て上げてきたのだと思う」

おそるべきことに、弱さはそれ自体として肯定されるのである。
弱さは、ドラッカーのいうように「中和」されるべきものでもない。克服の対象として「強さ」に向かう上でのプロセスの途上に位置付けられるものでもないというのである。ここに、飛躍的な「価値の転倒」を見ることができる。

 

わたしが普段出会う人たち、そして私自身のもつ「弱さ」。その「弱さ」の持つ「可能性と底力」とはいったい何なのだろうか。探求に値する大事な問いだ。

 

最後にその一例と思われるものを。『居るのはつらいよ』から。わたしがとても好きな箇所。

「「メンバー」とはもともとラテン語の「memberum」を語源としていて、それは「体の一部」とか「手足」という意味を持つ。メンバーであるとはコミュニティの一部になることなのだ。(…)メンバーになるとは、背中を掻く右手になることであり、右手に掻かれる背中になることなのだ。
 ユウジロウさんはデイケアでは最も小さきものだった。みんなに助けてもらわないと、うまく生きていけない人だった。だけで、それでもユウジロウさんは一番の人気者だった。みんなユウジロウさんのことが好きだった。それはユウジロウさんのことが好きだった。それはユウジロウがまぎれもなくメンバーだったからだ。彼は背中でもあり、右手でもあり、眼球でもあった。だからデイケアに疲れが生じるとき、ユウジロウさんは僕らを月の世界に連れて行った。すると、ケアが生じた」(東畑開人『居るのはつらいよ』医学書院、2019、p.222)

ユウジロウさんは「弱さ」を持つ。おそらく彼は、デイケアの外の世界では「弱さ」ゆえに、居場所を持つことに困難がある。しかし、ここではかえってそれが「可能性と底力」をもち、場のケア(パウロの言う「配慮」)の一端を担っているのだと考えることはできないだろうか。