ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

シャレのようなメタファーのような「ごっこ」のような錯綜した日用世界

最も現実的とみなされる日用の代物でさえ、メタファーやある種のシャレや「ごっこ」によって成立しているのではないか、ということを考えてみます。だれもが知っている日常的な語句と戯れていくうちに、そういう結論に至りました。登場人物は、「盗る」「捕る」「神」「上」「基」「素」「元」と言った言葉たち。「お金」も一種の「ごっこ」や「メタファー」「シャレ」なのでは。

言葉は、対象と文脈に応じて分化するという仮説

「捕る」と「盗る」は別の言葉ですね。ものを盗るのは泥棒で、泥棒を捕る(逮捕する)のはお巡りさんですから、全然違う意味の言葉だ、という言うまでもないことをわざわざあえて言っています。

しかし、どちらも「トル」という音をもっています。またどちらの行為も、「手を伸ばして何かをつかみ、自らのもとに保持する」という意味では共通するでしょう。ではこの二つの言葉の違いは何でしょうか。少なくとも、それらの行為の対象や、行為が起こる文脈が違う、ということは言えるでしょう。つまり何を「トル」か(対象:泥棒を/大根を)。どういった状況で「トル」か(文脈:お巡りさんがパトカーで追いかけて/大根を持ったままスーパーでお金を払わずに店を出る)。そのような対象や文脈の違いがあります。

このような仮説が考えられます。「捕る」も「盗る」も本来、同じ言葉で区別は明確ではなかった。一見違う言葉に見えるのだけれど、実はきょうだいのように深い血のつながりを共有しているかもしれない、と。その行為の対象や、その行為の起こる文脈の違いに応じて、その意味が分化して異なる単語になったのだと。

f:id:k_kotekote:20191209114145p:plain

きょうだい言葉を手掛かりに、分化と逆方向のプリミティヴな意味へと触れていく

そうすると、こういった想像が成り立ちます。

 雷(かみなり)は、もともと神鳴りだったのかな。
 さらに、神(かみ)は、もともと上だったのかな。
 とすると雷(かみなり)は、上鳴りでもあるわけだ。

つまり、神からさかのぼると、「カミ」、そしてカミから神と上が区別された、と仮に考えてみる。そして「盗る」と「捕る」は一見別の意味に見えて、実は共通するところ、親せきのようなところがあったのと同じように、神と上は、きょうだいのような関係にあるのではないかと考えてみるわけです。兄の中に、妹に似た部分があり、妹の中に兄に似た部分があるように。両者は、別人であって、ある意味では似ていません。でもある意味ではとてもよく似ています。あるいは、神も上も、カミという何か非常に原初的プリミティブな意味感覚の、異なる側面である、と考えてみてもよいかもしれません。そうすると、やはり、神は上と区別されながら同じ何かを共有していますし、その逆も言えます。

f:id:k_kotekote:20191209121106p:plain



雷は神鳴りであり、上鳴りである。
さきほど、「想像」と言いましたが、しかし、あなたがちとっぴな理解ではないでしょうし、単なるダジャレでもないでしょう。雷という現象は、超人間的なチカラ(神)によって起こる何か畏れを伴う出来事、だからこれは神に関連する、という理解は昔の人の素朴な実感として、十分に了解可能ではないでしょうか。また、もちろん、雷は方向的には「上」ですから、当然「上鳴り」でもあるわけです。

 

まずここで気づくのは、「神」という言葉が、きわめて複雑なイメージを含有していることです。神は上であり、また上は神に関連する。方向としての上と、人間からの超越性という神が、交錯しています(「上」には、人間からの超越性が含まれています。人間は空を飛べないので、方向としての上は、人間を越えている)。神という言葉を使う時、暗黙の裡に、そこに「上」が編み込まれているとも言えないか(もちろんその逆も言えます)。

 

ところで、ここに兄と妹がいたとします。 妹のことを良く知った妹の友人は、初めてその兄に会う時、妹を基準にして兄の中の妹に似た部分、あるいはよく似ていない部分を見出すでしょう。兄の事を良く知った兄の知人は、初めてその妹にあった時、兄を基準にして妹の中の兄に似た部分、あるいはよく似ていない部分を見出すでしょう(例えば、髪の色、鼻や目の形、話し方など)。この時、人が、兄と妹の片方単独しか会っていない場合よりも、両者と会って、似ている部分、似ていない部分を見つけることをしたほうが、その人物がもともと持っていた特徴がよく理解でき、明確なものになるはずです。

 

これから行いたいのは、これとよく似たことです。登場人物は、「神」と「上」というきょうだい言葉。わたしは、お兄さんの神はよく知りませんが、上という妹はよく知っているので、その観点から、お兄さんのことを観ていこう、という手順です。

 

「上」の分析。上は「モト」でもある

そこで、「上」という言葉について、もうすこし見てみましょう。
まず「風上」とか「川上」とか、「上」というように、「カミ」は、何かがやってくる「源」でもある。さらに「源(みなもと)」は「水元(みなもと)」であるでしょう。
そして「元(もと)」は、「基(もと)」とか「素(もと)」でもあるでしょう。つまり、「川上」は、川がやって来る元であり、基であり、素である、という理解です。「上」には、このように元・基・素という意味も含みもっているとするならば、神(カミ)には、元・基・素(モト)というイメージが付着しているかもしれない。言われてみると、何かそんな感じがしませんか。神話に出てくる神様って、我々が生きている世界の元だとか、基だとか、素だったりしませんか。「始めに、神は天地を創造された」(旧約聖書の創世記)。

 

 神は上である。
 上は元・素・基である。
 故に、神は元・素・基である。

 

極めて形式的な推論ですが、しかし、こうしてみると、神という言葉に付着するイメージの意味解析としては、面白いことを言っているのではないかと思います。

 上は、神の人間に対する超越性を。そして神の世界または人に対する影響力のベクトルと不可逆性を。
 元は、神の世界に対する起こりであること、素は神がオリジンであることを、基は神が一切を支えていることを、含意している、などなど。

f:id:k_kotekote:20191209123056p:plain

概念的には矛盾を抱えたまま成立している極めて複雑で豊かな意味世界

ここで複雑なのは、これらの複雑に込み入って、交錯したイメージは概念的には矛盾があるということです(上の図右下)。例えば、モトには「元」や「素」だけでなくて、「下」がある。カミはモトでもあるというならば、カミは「下」でもあることになる。つまり、上は下である。よく考えると、モトの基も、下である。建物の土台(基)を考えればわかるように、基は下にある。モトは、何かしら「下」という意味合いも、付着している。

 

「足もと」というように、モトは下を意味しています。足下という時の「モト」は、「土」です。わたしたちが足を踏みしめる、大地。この大地からは、年々緑が芽吹き、葉を茂らせ、実を結びます。「足下」にある大地は、いのち「モト」であり、や収穫の「モト」である。このようにモトというのは、何かが「由って立つ」ものであり、「そこから生まれる」ものでもある。だから源というように、川、水の流れが「そこから生まれる、そこ」が、位置的には「上(カミ)」に位置していたとしても、「モト」と言うのかもしれない。物理的な位置という意味では、上と下は概念的に矛盾するが、何かが生まれる「そこ」という意味でのモトというイメージは、カミと必ずしも矛盾しない。

 

つまり、上には、下のようなところがあるわけです。神には、下のようなところがあるわけです。一見概念的には矛盾ですが、私たちが直感的に感得して知っている「神」という言葉の意味理解としては、矛盾ではないでしょう。神には、上のようなところがあるし、下のようなところもある。

ある種のシャレのようなメタファーのような錯綜した日用世界

結論めいたことを言うと、一つの言葉にもきわめて重層的で複雑な意味が編み込まれているということでしょうか。一つの言葉(例えば「神」)にも、一見異なり(上・元・基・素)、場合によっては相反する意味が織り込まれ(下)、その複雑な意味を構成している、ということです。そして私たちは言葉と共に世界を生きているわけですから、その世界は縦横無尽に錯綜した意味の重なり/絡まりの中に成立している、ということがきっと言えるでしょう。これまでの議論は、神話的な思考というか、形而上学的な空想のようにも思われます。しかし、私たちが日常用いている言葉のシステムが、実はこのような錯綜した形態で成立しているとするならば、我々の日常そのものが、実はよく見れば神話的であったり、形而上学的空想的とも言えるのかもしれません。

 

わたしには、「お金」と言った、もっとも即物的で現実的とみなされる日用の代物でさえ、メタファーやある種のシャレによって成立しているように思われます。だって、10000円札は、金属ではないでしょう。でも「お金」というのですよ。札と金の意味が錯綜していませんか。金の「意味」が紙の札の上に転用されて、織り込まれているのではないでしょうか。だれかが、札を金として用いるようになった。これは、ある意味「ごっこ遊び」と似ています。ごっこ遊びでは葉っぱがお皿で、砂がお米である「かのように」用います。上が神で、神が元…云々、と言葉と戯れてきましたが、同様にごっこ遊びでも、意味が複雑に錯綜しています。札も、金である「かのように」用いたのではないか。そしてもともとのお金の意味や働きを札が担い、札なのに「お金」という名が定着したのだと考えてみては。むろんこれは実証的な歴的証拠によって導き出された結論ではないので、あくまで想像に過ぎないわけですが。

 

感じるのは、日常の生活の成立可能性を思索することは、きわめて興味深く、面白い、ということ。日常を生きることに、より魅力を感じもさせてくれます。そして、もう一つは、現実は意外と流動的であるということ。札がお金と呼ばれるようになり、あたらしい意味で用いられるようになった、というように。