ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

わたしにとってのフォーカシングの「効果」。フォーカシングをはじめてから微大に変わったこと。①

「フォーカシングをしてみるとどうなるか」「フォーカシングに効果はあるのか」。

実証的なデータや分析は研究者に譲ることにして、わたしは、わたしの拙い体験から、フォーカシングに触れて起こった変化や、受けている恩恵について語ってみたいと思います。

※そもそもフォーカシングが「どういうものか」や、「やり方」を知りたい方は、こちらの外部ページ(フォーカシング・ネットワーク)にわかりやすくまとめられていますのでご参照ください。

www.focusing-network.org

まずフォーカシング歴について

一応、わたしのフォーカシング歴についても軽く述べておきます。

はじめて「フォーカシング」に触れたのは、平成27年の夏。ジェンドリンの『フォーカシング』を読んだのが初めてです。

次の年の春頃、東京にある日精研というところで開催されているワークショップに参加して、体験的にフォーカシングを学びました。

ですから、フォーカシングに出会って、かれこれ4年くらい経つということになります。

 

現在、わたしにとって、フォーカシングは生活に外すことのできないものになっています。

 例えば、こうして文章を書きながら。

 買い物で商品を選びながら。

 夜寝る前、一日を振り返りながら。

いちいち「フォーカシングだ」と意識するわけではありませんが、そういった場面で「からだの感じを確かめること」は浸透しています。フォーカシングやジェンドリンから受けている恩恵は、決して少なくありません。フォーカシングには「効果があるからする」とか「効果がないのでしない」といったように、とったりつけたりするものでは、もやはなくなってきています。「効果」などというのは白々しいというか…。

 

では、フォーカシングに触れてからどのような変化があったのかということを、以下で2点ほどまとめてみます。

フォーカシングをはじめてから変わったこと

①買わなかった服を買うようになった

 具体的なものを挙げると、これは確実に一つ言えることです。とても些細なことではありますし、一見どうでもよさそうに見えます。しかも、それとフォーカシングはどう関係あるのか。でも、今回よく考えてみると、これは結構意味のあることのように思えてきました。簡単に言うと、フォーカシングに触れることで、「じぶんがいいと思えるものはいいと思えるようになった」という変化です。どういうことか。

 

どんな人もある程度そうだと思いますが、それぞれの人にとって、「着て良い服」「着て良くない服」の区別はありませんか。「わたしには紫は似合わない」と思っていると、「紫の服は買わない」という選択になるでしょうし、極端な話、「わたしは男だ」と思っていると、「女性ものの服」はきっと買わないことでしょう。私はそれまで、はっきりした理由があるわけではないのですが、着たことのある似たような服しか買わない、という傾向がありました。これまで着たことのないような服はあまり「着て良くない服」の部類になっており、それ以外の服は全く選択肢から排除されていたようです。

 

しかし、それが「これまで全く可能性から排除されていたものも、選択肢の一つとして検討されるようになる」という変化が起こりました。

 

私の場合それは、これまでに着たことのない服であったとしても、「いいな」と感じられたとき、その「いいな、という感じ」を尊重して、その服を買って着られるようになった、という変化なのです。値段や、機能性だけでなく、色合いや雰囲気といった「感じ」から、物を選べるようになった、という変化です。「そんなのあたりまえじゃん」という人もいるかもしれませんが、わたしにとっては、「じぶんがいいと思ったものをいいと思える、そしてそれを選択できる」ということは、ささやかかつ大きな違いです。

 

これは、買い物に限らず、文章を書く際にも同じことが言えます。文章を書いていて、「何かしっくりこない」ときはその「しっくりしない感じ」を無視せず、しっくりする言葉を探してみるということ。あるいは、「よし、いいな!」と思える表現が、多少奇抜ないしは奇妙であったとしても、奇抜ないしは奇妙なままにしておけるということ(以前なら、変だと思ってあたりさわりない表現に書き換えていました)。これらは、「実感・(からだの)感じ」を大切にする、フォーカシングを実践することから受けた変化だと思います。別の言い方で言うと、自分の「感覚」を信頼して大事にできるようになったということ。そして、より満足のいく選択を吟味してできるようになったということでもあります。実感として「いいな」と思えるものを選択できるようになったのですから、満足が行くのは、当たり前ですね。そういったことが、文章執筆、買い物など色んな場面で起こったということです。

②人の独特さが生まれる現場に立ち会う喜びを知る

「いいなと思ったことをいいなと思える」という変化が起こり、自分の「実感」を信頼することを学ぶと、気づくのは、人のユニークさ(独自性)です。何も、ユニークになろうとか、個性的な人になろうなどと、力む間でもなく、本来人はユニークだということ。これもフォーカシングから学んだことです。たとえば、先ほど、

「そんなのあたりまえじゃん」という人もいるかもしれませんが、わたしにとっては、「じぶんがいいと思ったものをいいと思える、そしてそれを選択できる」ということは、ささやかかつ大きな違いです。

と言いましたが、わたしにとって、「ささやかかつ大きな」という表現は、けっこう重要で、より実感に近い言い方を試みるならば、「微大(びだい)」という言い方をしたくなります。しかし、「微大」という日本語は存在しません。そういう意味ではユニークな表現です。ことばにすると「微かであり、かつ大なる」というちょっと矛盾をはらんだ、むずむずする、意味の感じ。この「感じ」(フォーカシングでは、「フェルト・センスfelt sense」と言いますが)に忠実になると、おのずから、ユニークな表現をせざるを得ません。人は実感から語ろうとするとき、ユニークです。

 

私の中にあるユニークさを発見したり創造できるということは、楽しくもあり、喜びでもあります。わたしにとってそれ(独特なものを創造するということ)は、代替不能な魅力を放っています。そういう体験ができることも、フォーカシングに触れてから増えた気がします。

 

フォーカシングを実践している集まりなどにでかけて思うのは、どんな人にもユニークさがあり、創造性があるということです。だから、「人ってすごいな」と思いますし、新たなものが生まれる現場に立ち会うことは、とても感動的です。人には、そういった「豊かさrichness」があるという確信が、フォーカシングによって育てられています。「人間尊重」とか「人間の尊厳」と言った言葉を、お題目としてではなく、実感をもって少しずつ理解できるようになったのは、フォーカシングによって、であるかもしれません。フォーカシングは、わたしの人生に「微大な」差異をもたらしているのだな、と改めて思います。

おわりに

今回は、フォーカシングに触れることで得られた効果や変化を、2点ほどわたしの体験から書いてみました。そのほかにも、

 ③他人に優しくなった?

 ④なんとかなると思えるようになった

 ⑤詩を読めるようになった

などが、今思いつく限りでも頭に浮かびます。また別に書いてみようかな。。。

 書きました(2020.1.4)↓

k-kotekote.hatenablog.com