ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

ジェンドリン『プロセス・モデル』(Gendlin "A Process Model")イントロダクションを丁寧に読む① わたしたちはタンポポのように世界と触れ合う。

Eugene Gendlinの"A Process Model"(ジェンドリン『プロセス・モデル』)を読み始めた。一番最初の「イントロダクション」を読み終えたところ。意外と読みやすい気がする。辞書も引かずに済んだ。

しかし、果たして読み切れるのか。フォーカシング関連の数々の本を訳出されている某先生ですら、枕元に置いたまま読めていないと言っていた著作である。これを読もうとは、無謀な試みであるようにも思える。

せめて、イントロダクションくらいは、精読しよう。以下の引用形式の表記のところは、わたしの拙訳。さらにその下はわたしの「読み」(理解の試みや思いついたコメント。)

イントロダクション
ユージン・T・ジェンドリン、デイヴィット・ヤング

 

私たち人は、知覚(perveive)をするものではある。けれども、人はまた相互作用する生(intercting living)でもある。相互作用する生は知覚よりも基本的かつ即時的である。我々はこの生を、生きとし生ける他の一切のものと共有している。植物と同じように、私たちのボディは、ボディとして相互作用し、五感を伴ってのみやって来るものとして相互作用しているのではない。われわれのボディは、相互作用することであるのだ。(p.XⅰX)

 

「知覚」perceive。

いきなり脱線すると、ロジャーズは、クライエントが、カウンセラーの態度(自己一致、共感的理解、無条件の積極的関心)をある程度は「知覚」していることが、「治療的(建設的)な人格変容」にとって必要な条件の一つと考えた(6条件のうちの一つ)。「知覚」とはその「知覚」でもあるだろう。

さて知覚は、英和辞書を引くと、「気が付く」「わかる」という訳語もある。「知覚」とは、気が付いて、はっきりわかることであるらしい。わたしたち人は、知覚する。すなわち、何かに気が付いて、はっきりわかることができる。たとえば、カラスの鳴き声に気が付いて、それとして知るように。

しかし、我々は知覚するだけではない。我々人は、相互作用する生interacting livingでもある。

 

相互作用する生interacting living。

inter-acting。interは、インターネットのインター。インターナショナルのインター。インターは、相互に、互いに、行ったり来たり。そういう意味。テレビは、発信者(テレビ局)から受信(視聴者)へ一方向(最近は、リモコンに色々ボタンがついていて必ずしも一方向ではないけれど)。対して「インター」ネットは、情報をもらうも送るも自由自在、双方向的。act=「働き・作用」が、一方向的ではなくてお互いに、というのが、相互作用ということか。

livingは、生きるというその動態を言っているのかな。「生物」とか「いのち」とか言うと、モノ化されて、「止まってしまう」感じだから、違う気がする。あくまでliving。「いのち」というよりせめて「いのちの流れ」だろう。生きている、その進行する過程。experiencingは「体験過程」と訳されているけれど、それに倣うなら「生命過程」と言ってもいいのかもしれない。

そういう、動態としての生(生きている動き)は、互いに働きかけあっている。相互作用している生。我々は、まさに現在進行で「相互作用しつつある生の流れ」である。

 

ボディbody ボディとして相互作用する

最初、「からだ」と訳そうとしたのだけれど、日本語の「からだ」とは語感が違う気がして、ボディとカタカナ表記で、放置している。英語では、生きものの身体を含め、モノの事をbodyという。コップもボディ(物体)。車の車体もボディ。

「植物と同様に」というのは、植物は「知覚」はしないだろう、しかし、相互作用するだろうということだと思う。タンポポは、陽光がそこに降り注いでいることを、知覚しない。風がそよいでいることに「きづき、はっきりわかって」なんかいない。それでも、タンポポは、空気や水や光に触れ、周囲の世界と互いにかかわりあいながら生きている、いのちの流れ(living)だ。タンポポのボディは、相互作用はするが、そのボディは「知覚」はしない。タンポポは知覚を通してではなく、知覚はしないボディとして世界との関わり合いに生きている。

 

最後の一文は、我ながらひどい訳文だ。「五感を伴ってのみやって来るものとして相互作用しているのではない」。そもそも意味が正確にとれていない。こういうことだろうか。

我々人は、見、聞き、味わい、嗅ぎ、触れる。そうした五感を通して、世界の何かに「気づき、わかる」(知覚する)能力を持つ。われわれは、そうした知覚を通して「も」相互作用しているであろう。しかし、われわれは、その「知覚」以前に、タンポポのように(必ずしも知覚しない)「ボディとして」世界と相互作用している。そして、知覚し何かに気づき、「はっきりわかる」ことよりも、我々は「ボディとして」世界のあらゆるものと相互作用しつつ在る生であるということの方が、より基本的で、即時的なのだ、ということ。そう、われわれはタンポポのように世界と触れ合う。

 

以上。たった最初の一段落だけだけれど、しっかり読むと得るものは大きい。

 

 

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