ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

ソーシャルワーカーとは? ソーシャルワークとは?② 「ソーシャル」ってどういうこと 

前回、ソーシャルワーカーとは「生活に困っている人の援助をする人」と説明してみました。 

k-kotekote.hatenablog.com

おおまかなイメージを伝えることを優先してしまったので、説明が及んでいないこともまだまだたくさんあります。

そこで今回は、

  • ソーシャルワーカーの「ソーシャル」social(社会の)とは、どういうことなのか。他の援助職(人を援助する職業)とどのように違うのか。

このあたりについて、考えてみます。

結論から言うと、「ソーシャルワーカーって、なんでソーシャルなの? それってどういう意味?」って聞かれたら、現時点でのわたしの答えはこうです。「それはですね、人は、"社会"すなわち(言わば)"世知辛い世の中"で生きていて、人の生活の困りごとというのは、"人"と"社会"(の世知辛さ)との関係の中で起こるものと、とらえられるからです。そういうポイントに注目する援助職(援助を仕事にする職業)だから、"ソーシャル"という名がついているんです」。

 

もしもわたしが火災にあって足を怪我したら…

たとえば、私は今ソーシャルワーカーとして働き、生計を立てています。

 

しかし、私の住んでいる部屋が火災にあい、崩れてきた柱に足をはさまれ、歩けなくなり、数カ月の入院やリハビリを余儀なくされたらどうなるでしょうか。

 

おそらく、お医者さんをはじめとした、様々な医療関係のスタッフが、私のことを援助してくれるでしょう。

 

お医者さんは、手術をするかもしれません。理学療法士さんはリハビリをしてくれるかもしれません。看護師さんは入院中の色々なお世話をしてくれるかもしれません。
足を治すこと。できるだけ、歩けるような状態に足の働きを回復させること。これらは、病院における治療の重要な目標となりえます。

 

しかし、私の困りごとは、単に「足が動かない」ということにとどまりません。
それらは、人間(私)が、単に身体的・生物学的な存在であるに留まらず、社会的(ソーシャル)な存在であることに由来します。
どういうことでしょうか。

 

人は社会の中で生活している

火災で足の怪我をして入院する。

そんな状況になって、まず心配なのは、「病院代、いくらかかるのだろうか?」かもしれません。
病院だって、社会の中に存在する一組織です。お医者さんも、看護師さんも、生活していくために、患者さんからお金をもらわなければならない。
病院だって、ただじゃない。私も、治療を受ける以上、社会の一員として、病院にお金を払わないといけないという役割がある。
ですから、「こんなに長いこと入院していて、治療費を払えるのだろうか…」ということが心配になってきます。

 

それから、「仕事、どうなる?」です。

足を怪我して・入院をして、影響がでるのは、「仕事」です。まず、入院中は休まざるを得ません。「うちの会社、こういうとき有給で対応できるんだっけ、傷病の際は、何か別の仕組みが或るんだっけ、就業規則、ちゃんと読んでおけばよかった…」などと思うかもしれません。

さらに、「仕事に復帰できるのだろうか」「今の仕事に復帰できないとしたら、どうやって生活していけばいいのか」。そんな心配も当然起こるでしょう。

 

他にも、家が火事になってしまったわけですから、その後始末をどうするとか、新しく住む場所を見つけるとか、いろいろ問題はあります。特に足に障害が残ってしまった場合は、住処の選択には大きな制限が課されます。わたしはいま4階(エレベーターなし)に住んでいますけれども、そういう部屋には住めないかもしれませんから。

 

とにかくこのように、人が「火事で足を怪我する」という事態におちいった時、単に「足が動くようになるかどうか」といった「身体の機能」だけが、問題ではないわけです。

 

それだけではなく、「お金を払う」とか、「仕事をする」とか、「住まいを確保する」とか、そういったことも含めて、問題になってきます。人は、社会の中で生活していて、仕事や家庭やもろもろがあるわけですから。けがをした、痛い、ショックだ、といった問題に加えて、「医療費を払う」「仕事をどうする」といった現実が待っているわけです。さらに細かくいうと、「トイレに行って用をたすこと」「歯を磨くこと」「靴を履くこと」「駅まで行くこと」「地下鉄に乗って会社に行くこと」などなど…。

 

人は、ケガ人であってもなくても、普通の世の中・「社会」に生きています。例えば、生きていくには、お金がいる。お金を得るには仕事をする…。人が社会で生きていくということは、こうした一見当たり前の日常の事柄の集積です。しかし、そうした当たり前と思える生活が、困難になる事態がたくさんあります。災害、事故、病気、不景気…。そういった事態に陥った時、この社会の中で(世知辛い世の中で?)、どうやってこれから生きていくのか。暮らしていくのか。生活していくのか。そういったことが問題になってきます。

 

人はみな社会の中に生きています。生活するというのは、人が社会の中で暮らすということです。社会の中で暮らすということは、他者との関係の中で、自分の居場所を見つけたり、そこで期待される役割を果たすことだったりします。公園の公衆便所を利用することにさえ、社会的に期待される振舞い方があるはずです(つまり、おしっこは便器の中にするものです、床にこぼしてはいけない、といったような)。しかし、私が車いすで生活するようになったら、公園の狭いトイレでは、そうした社会的に期待されるふるまいが、とても難しくなるかもしれません。あるきまった形の設備や、ある振舞い方を求める社会の中で生きているからこそ、その通りにできない困りごとが生じてくるとも言えます。

 

だから、生活に困るということは、自分のいる社会(環境)との関係性の中で困難を覚えているということだと言えます。こうした視点から、困っている方々がより良く暮らすことができるよう、援助するのがソーシャルワーカーです。

 

まとめ 「ソーシャル」ワーカーの視点

前回、ソーシャルワーカーは、いろんな理由で「生活に困っている人を援助する人」だと説明しました。

 

「生活に困っている」ということは、これまでの話を踏まえて、より詳しく言うならば、「この(世知辛い?世の中)社会の中で、生活していくこと(暮らしていくこと、生きていくこと)に困難を覚えている」ということです。そういった困難に遭遇している人を援助するのがソーシャルワーカーです。医師には医師の着眼点、看護師には看護師の着眼点があるでしょう。そして、ソーシャルワーカーには、ソーシャルワーカーの「ソーシャルな」着眼点があるわけです(重なる部分もあるかもしれませんが)。

 

ソーシャルワーカーは、レントゲンをとって解析したり、手術をしたり、注射を打つことはできません。でも、人が「社会」の中で生活しているという視点から、生活の困難を理解し、人を援助しようとします。ソーシャルワーカーに「ソーシャル」(社会の)という形容詞がついているのは、そういうことに由来すると私は理解しています。