不可視に偏在する権力の社会的必要性と抑圧性『フーコー 主体という夢:生の権力』読書メモ
貫成人『フーコー 主体という夢:生の権力』読了。
読書メモ。
「権力」とは何か。王様や殿様、会社の社長など特定の人物だけが振るうものではない。「権力」は不可視に人々の間に偏在する。人々が、マスクをしているか互いに監視し合うところに権力はある。
権力とは社会、地域、住民のあいだの秩序生成維持装置である。
権力とは簡単に言えば、ひとびとの行動や思考を司るものなのである。
この考えで言うならば、人々が赤信号で足を止め、青信号で交差点へ進みだすとき、そこにも「権力」はある。赤は止まれ。青は進んでよい。このように信号や道路・横断歩道などによって構成される交通システムは人々の思考と行動を司る。このシステムに従わず万一事故が起これば、お巡りさんがやって来、責任を追及される。お巡りさんの存在もこのシステムに組み入れられていると考えてよい。それらすべてによって、秩序が生成維持され「安全」が守られる。「権力」は人々にとって必要な装置である。
そして、学校教育。学校もまさに「権力」である。
学校教育とは、放っておけば多種多様でありうる各自の行動・思考様式を「規格化」(装置)なのである。
同上、p.90
例えば、「遅刻せず」に「自分の決められた席」に座っており、「教師が発言を許すまでは黙っている」というような行動の様式。時間を守る。忘れ物をしない。順番に列をつくってならぶ。などなど。
「規格化」。しかし、この規格化に準ずることができないものは。つまり行動・思考の様式をあてがわれた規格に沿わせることのできないものは…?
学習障害やADHD…は、このような規格化からの逸脱に対する「名づけ」であると考えられないか。
そうだとするならば、「障害」は特定の規格化を人々に強いる文化社会的な文脈において構成される何かなのだという理解が得られる。「権力」「規格化」は、信号機がそうであるように我々にとって、必要な社会的装置である。他方、画一的な規格化が、社会的に不利な立場に置かれる一群の人々を生み出す可能性をはらんでいる。