ソーシャルワークの価値前提 人間の社会性についての考察
ゾフィア・T・ブトゥリム
『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』
ブトゥリムは、ソーシャルワークの価値前提として、
- 人間尊重
- 人間の社会性
- 変化の可能性
を挙げました。
以下は、そのうちの「人間の社会性」についての考察です。
全面的な依存性
震災で、電気が止まった時、水道が止まった時、わたしたちは、いかに自らの生活が、多くのものに依存していたかと言うことを知ります。地震で信号機も光をおとし、みなが混乱しているそのさ中、電気の付かない店内で、コンビニのアルバイトの店員さんたちが、パンやおにぎりを販売してくれたことの、どれほどありがたかったことか。パンやコメが手に入るということは、簡単なことではないのです。それは、全面的に他者に依存しているのです。
なぜなら、わたしは米を作ることも小麦を作ることもできません。土地もありませんし、技術もありません。しかしわたしは食べなければ生きていけない。コメにせよ、小麦にせよ、あるいはイモにせよ、わたしの生存は、それを生産する農家の方に依存しています。そして作られた作物を運搬する運送業者の方に依存しています。また、それを販売するスーパーの店員に依存しています。その他大勢の人に依存しているでしょう。私の生は、全面的に他者に依存しています。
あたりまえなことにはきづかない
健康であるときは、健康であることに気が付かず感謝もしないように(風邪から治り、健康を実感するとともに感謝し、そしてまた忘れる)、平時我々は、我々の生活がいかに他者に依存してるかと言うことに気が付きません。地震のような特別な出来事によって、社会のさまざまなシステムのネットワークや機能を停滞するという事態が起こって、初めて私たちは、私たちの生活がさまざまなものにささえられて存立していたかを知ります。
このように、人がふだんそれぞれ独自に生きているということは、ひとびとがたがいに依存しあうことを基盤としています。つまり、人間は社会的です。別の言い方をするならば、私の生活は、他者の働きの、関係的なシステムの中に埋め込まれており、それに依存して初めて可能なのです。この人間の社会性はあたりまえの前提であるため、ふだん意識することはあまりありません。
第二のソーシャルワークの基本的な価値前提は、人間の社会性に対する信念である。つまり、人間はそれぞれに独自性をもった生きものであるが、その独自性を貫徹するのに、他者に依存する存在であることをさしている(ブトゥリム(川田・訳)『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』川島書店,1986,p.61)
あらゆる人は、社会的である
ところでこのような問いが可能です。
大きな事業を展開することで、社会に貢献し、多くの人に認められている人が社会的である、ということはイメージが容易です。しかし逆に、他者との関わりを閉ざし、自室に閉じこもっている人も、社会的なのでしょうか。あるいは、罪を犯した人は、社会性がないから、そのような行動を起こしてしまったのではないでしょうか。あるいは満足のいく他者とのつながりがなかったから孤立し、そのような行動にむすびつたのではないでしょうか。
人間の社会性への信念が、ソーシャルワーカーの価値的前提であるとブトゥリムはいいます。しかし、すべての人が社会性をもつと、言えるのでしょうか。「社会性」=「社会的であるということ」を、より基本的なレベルに遡って考えてみます。
まず物質的な人間の生存要件について考えてみましょう。人は、生きている限りは、食べ、そして排泄します。食べ物は誰が作り、どこからくるのでしょうか。おしっこを流す水はどこからくるのでしょうか。レバーひねれば簡単に流れる水も、誰かの仕事ゆえに、安全なものとしてそこに供給されているはずです。社会との関係をたっているように見える人の生活も、他者との様々な関係性によって可能となっている、ということが言えます。
そのように考えると、いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる状態にある人も、その生活は社会的なつながりによって成立し得るものです。また、罪を犯し、刑務所に入っている人も、刑務所と言う社会的な装置の中があって、食べ物や寝る場所などもろもろの資源が供給され、その現在の生活が成立しているはずです。こう考えると、社会的でないように見える人々も(あるいは貧しい、不十分なつながりしかないように見える人も)、生存へのニーズは存在し、それはおそらく自給自足ではなく誰かによって供給されているのだから、その意味で何らかの仕方で社会性を帯びていると言えます。
また、上で述べたような生存基盤としての物理的ニーズを満たすうえでの相互依存性ということ以上の意味があります。
そもそも、ある人の振る舞いが犯罪とみなされるということは、そのようにみなす社会的なシステムが稼働しているといことでもあります。罪を犯すとは、他者に危害をもたらすような、関係の取り持ち方であると考えるなら、そこにはすでに、何らかの仕方での他者との相互依存的関係が前提されています。無人島でまったく一人で暮らしている人には、「ひきこもり」もなければ「犯罪」もないでしょう。なぜならそこには関係し、依存したり依存されるべき他者が存在しないからです(誰から引きこもり、誰に対して罪を犯すのか)。他者がいない条件下では、「ひきこもり」や「犯罪」と言った概念は用をなしません。そもそも、相互依存が成立する他者との関係性の網目の中に置かれているから、「ひきこもり」や「犯罪」が成立すると考えられます。
一般的に、非社会的であること、反社会的であることは、人間の社会性を前提として成立すると考えらえます。
ここで示されている「社会性」とは、よくこの語を使う際に意味するように、他者と友好的(あるいは協力的)な関係を築く能力のことを言っているのではありません。それは、より基礎的な事態、すなわち、人間は個々に独自の生を生きるが、それは他者との相互依存的関係の中で可能である、という人間の存在の様式を指していると解釈できます。
人間の社会性は、ソーシャルワークのもろもろの価値の前提である
さてこの水準にまでさかのぼって、人間の社会性をとらえるとするならば、このようなことは、とりたてて言うほどのことでもない当たり前の事実です。ですから健康と同様に、この事実をふだんあまり、意識することの少ない、人間の存在の様式です。しかし、人間の社会性に関する信念が、ソーシャルワークの価値の前提の一つだとブトゥリムは考えます。以下再掲。
第二のソーシャルワークの基本的な価値前提は、人間の社会性に対する信念である。つまり、人間はそれぞれに独自性をもった生きものであるが、その独自性を貫徹するのに、他者に依存する存在であることをさしている(ブトゥリム(川田・訳)『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』川島書店,1986,p.61))
ですから、これをクライエントとワーカーの関係にも当てはめて考えるならば、クライエントがソーシャルワーカーに依存しているのと同時に、ソーシャルワーカーもクライエントに依存している、と言えます。このような相互依存関係を認めなければ「虚偽」をもたらすとさえブトゥリムは言います。では、ワーカーとクライエントの相互依存性とはどのようなことなのでしょうか。これについては別の機会にあらためて考察することとしましょう。
ゾフィア・T・ブトゥリム
『ソーシャルワークとは何か その本質と機能』