ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

竹端寛さん、沼田和也さんのドキッとする言葉。精神障害と社会

竹端寛氏の文章に「エリー湖」の比喩というものが登場する(『脱・いい子のソーシャルワーク』の6章「精神障害と抑圧・反抑圧」)。


元ネタは、ベイトソンの『精神の生態学』にあるというが、アメリ五大湖の一つエリー湖は、家庭や工場から排出される汚水の捨て場であり、一時期は深刻な環境問題を引き起こしていたという。つまり、エリー湖は、人間の生み出す副産物(手に余るもの、見たくない、近くに置きたくないもの)を捨て置く「自己の認識の外側」であった、と。精神科病院も、「エリー湖」だと筆者は言う。これは「人間の捨て場所」なのだと。

 

どういうことか。閉鎖病棟に入院した沼田和也牧師は、その意味で「自己の認識の外側」=「エリー湖」であった精神科病院にに当事者として入り、その実情を目の当たりにした人なのだと言えるかもしれない。大声をあげることで、同室の患者に苦情を入れられた患者が、手足を拘束された状態で看護師に睡眠薬を注射され、しだいに意識をうしなっていくのを見、沼田先生は述べる。

「彼がここに拘束されているから、世の中は「まともな」人たちだけで独占していられるのだ。世のなかの「まともさ」を、彼が贖っているのだ。」

『牧師、閉鎖病棟に入る』p.84

「人間の捨て場所」という表現にしても、沼田氏の表現にしても、わたしは精神科に属して仕事をする人間として、かなりドキッとする。なぜなら、もしそうだとするならば私は「人間の捨て場所」を維持するシステムの一端を担ってしまっているからだ。そして防衛的になって、"Yes,but..."(「はい、そうかもしれません、でも...」)と言いたくなる。「だってそうじゃないですか、彼らを退院させてごらんなさい、通院治療の必要性だって理解していないし、身の回りのことだってどうやってやるんですか。症状が再燃して、まわりの人たちに迷惑をかけた上でまた病院にとんぼ返りですよ。そもそも退院させるって、受け入れる先なんかあるんですか。もし万が一のことでもあったら、誰が責任をとるのですか」。これは私の中にある、「世間の声」である。(私自身の声は…?)

 

沼田先生の文章の中に登場する「まともさ」という言葉。T.Jシェフならば、これを「残余ルール」と呼ぶかもしれない。残余ルールとは、法律的な明文化されたルールからは漏れ出るようなルール、すなわち「社会のメンバーにとっては「言うまでもない」ものであり、それを破るなど思いもよらないような種類のもの」*1である。この観点からすると、部屋に監視カメラが仕掛けられており常に自分が狙われていると述べることは残余ルール違反であり、酒を飲み続け会社に行けなくなり、食事もとれず失禁するのも残余ルール違反である。精神疾患の症状とされるような行動は、残余ルール違反、すなわちある種の逸脱行為と捉えられる。この考えによると、「精神的な病」は、社会的文脈の上ではじめて定義可能なのだということが示唆される。

 

精神疾患(心の病といっても脳の病と言う時もそうだが)は、個人の身体に内属する何かであるかのように表象されるが、実は社会文化的な文脈に置かれた身体の呈する、規範からのある種の逸脱に対するラベリングなのだと言える。そうだとするならば、精神科とは、そのような逸脱に対応する機能を持つ、社会的な装置なのだ。「治療」という衣をまとって行われる営みは、道徳的矯正とどこかで連続性を持っているようにも思われる。

 

日本が世界的に見て、膨大なベッド数をもつという現象は何を意味しているのだろうか。おそらく、長期入院することは何らかのニーズに対応しているのだろう。それは病院経営の論理なのかもしれないし、家族や地域住民の安寧といったものかもしれない。わからないが、これは日本人の、「逸脱」に対する一つの態度(これはケン・ウィルバーインテグラル理論でいう所の、「第三象限」に位置する)を表明するものと考えることで、何か見えてくるものが有るのではないか、それは私の中にあった「世間の声」とも関連するのかもしれない、という仮説をとりあえず提起だけしておきたい。

 

 

*1:中川輝彦・黒田浩一郎編著『よくわかる医療社会学』p.23