ジェンドリン『プロセス・モデル』(Gendlin "A Process Model")イントロダクションを丁寧に読む⑥ 対象と状況
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引き続き、Gendlinの"A Process Model"を読む。
第Ⅲ章になってようやく、我々がそれと共に生きている対象というものが実際に伴っている(involve)ものが、明らかになる。対象が伴っているのは、状況である。状況とは、我々が、たとえ言葉にし得る以前であったとしても、自身がそこにいることを見出す、その状況である。最初、現実の(realな)対象は、何かが無いことに気づくときにのみ、出現する。そして我々は、ボディが継続的にそれを暗に指し示す時、その対象を持つのである。それと反対に、「所有している」ないしは知覚された対象は、第Ⅵ章でのちに登場する。p.XX
対象object。
よく言う。「健康というのは、失ったときに初めて有難味が分かる」と。
健康は、健康な時には、それとして意識されない。風邪をひいたり、体が動かなくなって、健康をmissしたときに初めて、健康なるものを知る。対象は初め何かをmissしたときに出現する(come)というのは、例えばそういうことなのだろうか。
あるいは、腕時計をなくしたとき。朝起きて、いつも使っている時計が、いつも置いてある場所にない。あるいは、メガネ。いつもあるところに、いつもあるはずのメガネがない。おそらく、無いことに気づいたとき、わたしはそれを探し求める。わたしの体は、「無いもの」を暗に示し続ける。そして、それを見つけた時「あった!」と一息つくだろう。
時計やメガネは、日常においては、「対象」としては経験されていない。それはあたかも体の一部であるかのように、いちいち意識されることは無い。にもかかわらず、それらは立派に役割を果たしてくれている。
しかし、それがmiss無いことに気づいたとき、かえってその存在は浮き立つ。メガネや腕時計は、わたしと別個の一存在として、対象として際立ってくるし、この場合は手元にあるべきものとして重要性を帯びてくる。
「最初、現実の対象は、何かが無いことに気づくときにのみ、出現する。」というのが、こういう意味であるならば、理解できる。(逆に言うと、我々の周りにあると思っている「対象」たちは、普段、対象としては出現していないということ?)
対象が伴って(involve)いるのはわたしがそこにいるところの状況
対象が伴っているのは状況である、その状況は我々が我々自らがそこにいることを見出すその状況である、とは、どういうことか。
まずポイントの一つは、状況situationというのは、わたしがそこに属しているその状況だということ。
例えば、今私は自宅で、布団の上にはらばいになって寝ながらノートパソコンにこの文章を打っている。そういう状況。
部屋の中は、本や洋服や紙類やら散らばっている状況。
ところで、今日は休日で仕事が休みであるという状況。
それから仕事の疲れが何となく残っていること。
地理的には日本。時期的には2019年の秋。
あと、今日これから外出の予定がある事。
…といった生の具体例を挙げて、「状況」という概念について理解を試みている状況。
などなど。ここが日本で時期は2019年の秋だ、なんてことは、多くの人に共通する「状況」であるが、これから外出の予定があるとか、仕事の疲れがとれていない、などというのは、わたし固有の個人的な状況である。
たった今、わたしが属している(そこにいる)その状況とは、例えばこのようなものだろう。そしてこの状況を対象は伴っているのだ、という。それはどのような意味なのだろう。
うん、なくしたメガネは、休日で時間がたっぷりあるときと、今すぐ外出しなければならないときで、全然意味が違うだろう。そのメガネという対象を見つける必要度の切迫性が違う。
あるいは、いまわたしが現実的に(realに)missしているのは、気持ちよく整った部屋である。今は床に本や紙やら、何やらが散らばっている。
気持ちよく整った部屋(本があるべきところにあり、ごみはゴミ箱に入った部屋)という対象は、確かに私の状況を伴っている。
そういう意味なのかな。
つづき↓