ちらかし読みむし

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ジェンドリン『プロセス・モデル』(Gendlin "A Process Model")イントロダクションを丁寧に読む③ 暗なる示しの中への生起

 

k-kotekote.hatenablog.com

ジェンドリン(Gendlin)のプロセスモデル(A Process Model)を読んでいる。まず前回までのところを思い出そう。

… 

知覚(はっきり何かにきづいて、わかること)以前に、私たちは周りのものたちとすでに相互に作用しあっている。

たとえば眠っている時もそうであるだろう。眠っている時、わたしたちは、知覚することなく呼吸し、酸素を取り入れ、二酸化炭素を返している。そのようにして、部屋の空気と体とは、互いに関わり合う。また、わたしが意図もせず、知覚をしなくとも、わたしの体は布団を温めるし、同時に布団は熱を保全してくれる。布団があろうと無かろうと、体は体温を一定に保つために機能するだろうが、それはその時その状況その環境との相互作用においてである。眠っていても、その相互作用は相互作用しつづけている。この「知覚はしていないボディと環境の相互作用」が、いま話題になっている。

さて、今日も続きを読もう。いつものように訳ののち、私の理解やコメントを付す。

まだ実際は知覚していない体-環(body-en)相互作用にとって中心的なのは、”implying”(「暗なる示し」)である。起こるものは何であれ、暗なる示しの中へと生起する(Whatever happens occurs into implying)。暗なる示し-の中への-生起(Occurring-into-implying)は、すべての生けるボディにとって、環境と相互する際、根本的であり続けるものである。
 暗なる示し-の中への-生起は、次の事を仮定していない。すなわち、ただ再編されるだけの、存在する前の固定された単位(preexisting fixed units)というものを。むしろ、本書の各章は、さらなるやり方をもたらそうとする。それは、最初はただ身体的に感じているだけのもの(身体的な暗なる示し。そこから新たな語や行動が出現し得る)を明瞭にするやり方である。p.XⅰX

 

暗なる示し-の中への-生起(Occurring-into-implying)

ここで、とうとうimplyingにスポットが当たってきた。

まだ実際は知覚していない体と環境の関わり合い。そこの中心には、「implying」があると。これをどう訳すか。それ以前に、どうimplyingを理解するかということでもある。

 

単に辞書を引くなら、

  • ほのめかすこと。
  • 含意すること。

などがある。

あるいは業界では、「暗在」という言葉も発明されている。Occurring-into-implying。これは、『ジェンドリン哲学入門』という本で、末武先生は、「暗在的含意の中へ生起すること」(注:"暗在的含意"には"インプライング"とフリガナ)と訳しておられる。

 

息をいっぱい吸ったとき、implyしているのは、吐くことだ。逆に、息を吐いたときimplyしているのは、吸うこと。布団をかぶり、体温が上がりすぎたならそこにimplyされているのは、ふとんをけ飛ばすことかもしれないし、汗をかくことかもしれない。
体と環境の関わり合いの中で、来るべき何かが「暗に示されている」。今回のわたしは、"implying"を「暗なる示し」とした。その「暗なる(指し)示し」「の中へ」物事は「生起する」。例えば、布団をけ飛ばすということが「生起する」。

 

(脱線1。それにしてもこのimply、implicitという語。これに「暗」という字を初めて当てた人はすごい。「imply」という語からフェルトセンスを立ち上げて、そのフェルトセンスに日本語の「暗」という字を選んでもらったのだろう。implyのフェルトセンスには「暗」という漢字が、暗に示されていたわけだ)

(脱線2。西田(西田幾多郎)は、implicitを「含蓄的」と訳しているのを想い出した。『善の研究』の4章「真実在は常に同一の形式を有っている」。)

 

存在する前の固定された単位(preexisting fixed units)

これはどういうことなんでしょうね。

暗なる示しの中への生起は、「ただ再編(rearrange)されるだけの、preexisting fixed unitsというものを、当然のものとして仮定しない」とは。

 

インプリシット=含蓄的?

ひょっとして、上の脱線が役に立つかもしれない。先ほど、

 (脱線2。西田(西田幾多郎)は、implicitを「含蓄的」と訳しているのを想い出した。『善の研究』の4章「真実在は常に同一の形式を有っている」。)

 とわたしは言った。西田曰く、

独立自全なる真実在の成立する方式を考えてみると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次のごとき形式に由るのである。先ず全体が含蓄的implicitに現れる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終わった時実在の全体が実現せられ完成されるのである。

西田幾多郎善の研究岩波文庫、p.79

今問題にしている、implyはこのような「含蓄する」ではない。まずそのことをおさえておく。どういうことかは、詳しくは後程、もう一つの脱線と合わせて述べる。

インプリシット=潜在的

そして、もう一つの脱線。敬愛する永井先生の『存在と時間 哲学探究1』より。

 しかし私は、イデア論とは独立に、想起説そのものに妙味を感じる。物事の本質理解は、いま使われている言葉の意味の中に潜在的(注:インプリシットとフリガナ。)に含まれていて、それは使っている当人には、使って何かを語っているときには、つかんで取り出すことができない。(永井均存在と時間 哲学探究1』文藝春秋、2016、p.150)

ここで興味を向けたいのは、プラトンの想起説でもなく、永井先生がここで述べようとする考えそれ自体でもない。 ここで使われている、インプリシットという言葉の用法(訳の当て方)である。

ここでは、「潜在的」にインプリシットというフリガナがついている。そうすると、implyは「潜在的に含む」という意味になる。しかし、ジェントリンの言っている、インプリシットは、「潜在的」ではない。implyは「潜在的に含む」ではない(少なくとも、「潜在的に含む」と言い得るのは、だいぶ後の話だと思う)。そのように思われる。それはどうしてか。

 

ジェンドリンのimply・implicitは、単純に「含蓄する」「潜在的に含む」と言いたいのではないように思える

このように、implyは「含蓄する」「潜在的に含む」という意味でも用いられる。しかし、ジェンドリンは、implyはまさしく「含蓄する」「潜在的に含む」とは違うのだ、ということを言っているのではないか。それはなぜか。結論から言うと、「含蓄」「潜在的に含む」は、「存在する前の固定された単位(preexisting fixed units)を仮定」する理解の様式だからだ。

この「含蓄する」「潜在的に含む」との対比から、「まだ存在していない固定された単位(preexisting fixed units)を当然のこととして仮定しない」ということの意味が浮き彫りになってくると思う。以下でそれを見ていく。

 例えば、記憶というものを考えてみる。

私が昨日食べた夕食がなんであったか。わたしはまだ思い出していない。しかし「何を食べたか」は、すでに定まった内容として、記憶の倉庫の中に、格納されている。そして、その倉庫の中から、ある内容が「つかんで取りだ」されることが、想い出すということだ。…と普通こう考える。昨日、わたしは天津飯ノンアルコールビールからあげクン(赤)を食べたことを、今思い出したのだけれど、この場合「天津飯」という記憶の内容が、記憶の倉庫に「含蓄」され、「潜在的に含まれていた」のだ、とそういう理解の仕方が可能ではある。これを「決まったものが/倉庫にしまってあるモデル」と呼ぼう。

①思い出され、はっきりとそうだと記憶があらわに存在するようになる(ex-sist=外に-立たされる→現れる)前から(preexist)、

②「天津飯」「ノンアルコールビール」「からあげクン(赤)」と言った、あらかじめ固定(fixed)された意味内容のまとまり(unit)として、

③記憶の倉庫の中にしまってあったのだ。…

このように、「決まったものが/倉庫にしまってある」モデルで考える時、「含蓄」「潜在的に含まれる」という言い方が自然と可能になるだろう。「含蓄」「潜在的に含む」という理解は、「まだ存在していないが、あらかじめ固定された単位の潜在(と再編)」という発想が前提となっている。

西田の言う、実在の「含蓄的な現れ」と分化・発展と完成という形式は、記憶の想起とはまた、趣が違っているけれども、分化・発展の方向性が、「含蓄」されているというのは、ありうる分化・発展の可能性が、あらかじめ未分の仕方で込められているという意味では、やはりpreexisting fixed unitsを前提とするような言い回しに聞こえる。未分の仕方で未然に込められたものの完成に向かって分化・発展する、と。あたかも鶏卵がヒヨコ(クチバシ、羽、臓器…といった分化発展)を、未然に未分化に込めているように。卵に込められたヒヨコ(クチバシ…)という可能性は既定のユニットである。これは、「暗なる示しの中へと生起する」こととは、やはり意味が違うんじゃないかなぁ。

しかしここでは、西田がどうだということを綿密に論じたいわけではない。ジェンドリンの言っている、implyingは、すでに固定された内容を「潜在的に含蓄する」という意味ではないということの意味を確認したかった。そのために、西田や永井先生のインプリシットという語の用法や訳をレンズのようにあてて、implyingの意味との差異と奥行きを浮きたたせようとしたまでである。

「implying」は、既定の内容の含有ではない。「そこ」から「新たな語や行動が出現し得る」「暗なる示し」である。そしてわたしたち生けるボディにとっては、起こることは何であれ、「暗なる示しの中へと生起すること」だということ。

implyが「暗黙の含意」と訳されることもあるけれど、「含」(含蓄)という言葉や、「潜在」という言葉は、「倉庫にしまっている」あるいは「水面下に見えない何かが潜んでいる」というような、preexisting fixed unitsを前提とする発想につながりやすく思う。「暗なる示し」としてみれば、そのようなことにはなりにくいという利点がある。

…というのが現時点でのわたしの理解。

つづき↓

 

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