ちらかし読みむし

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ジェンドリン『プロセス・モデル』(Gendlin "A Process Model")イントロダクションを丁寧に読む⑤

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引き続き、 『プロセスモデル』(Gendlin "A Process Model")のイントロダクションを読んでいく。

前回読んだところは、第Ⅰ章で何が説かれているかの説明だった。ボディと環境は一つのプロセスであり、互いに互いを暗に示し合っているということ。

 今回読むところは、第Ⅱ章の概要らしい。いつものようにまず本文。その後はその「読み」。

  第Ⅱ章は、ボディ―環境の暗なる示しをより一層展開していく。ボディには、たくさんの循環プロセスがある。食べ、消化し、お腹がすき、食べ物を探し(また食べる)、といった循環(サイクル)。これら継続進行中の循環的プロセスのどこにあっても、どのステップも、その他すべてのステップ、その循環におけるすべてのボディ-環境的生起を暗に示している。そこには、今は起こっていない相互作用/暗なる示しがある。だからこのプロセスは、新しい形の時間を生みだす。「プロセスには、そこに暗に示されている時間がある。… しかしそれは単に線型的な時間(linear time)なのではない」(9)。
 さらに、第Ⅱ章は体-環の指し示しを「常に生ける過程にある(always in living)」として、掘り下げて見ていく。「生命の過程のほんの少しは、常にさらなる少しの指し示しでもある」(11)。何が起ころうとも、何が生起しようとも、生起はつねに暗なる指し示しの中へと生起する。

 第Ⅱ章は示す。パターンや概念としてすでに特定されているものよりも、生起や暗なる示しの方がいかに複雑であるかということを。わたしたちが身体的に照合するものは、いかなる特定の形式(form)をとる前に、やって来るのである。わたしたちはいつも・すでに、わたしたちが身体的に感じることのできる状況の中にいる。たとえ、私たちがどうやってそれ(感じている状況)を言葉にして、記述すればよいかわからなくとも。p.XX

 非・線型的な時間

ここでいうジェンドリンの言っている「線型的な時間」とは何なのだろうか。

例えば、世界史年表のようなもので描かれる時間かもしれない。左に書かれているものほどく、新しいものは右。数直線のように、事実の集積が左から右へと年代順にならんでいるような。

「線型的な時間」というのが、世界史年表や数直線で表現されるような時間であるとするならば、これは別段間違いではない。一面の真実をよく表現していると思う。たとえば「同じ川に二度入ることはできない」ということ。ある瞬間は行ったきり、決して戻ることはないから。死人は永久に死人であり、生き返ることは無いから。時は過去から未来へと、変えることなく流れていく。

 

しかし、これはあくまで一面にすぎないともいえるのだろう。

本文では、「食べる」にともなう循環が例示されている。

他にもたとえば、朝、昼、晩は繰り返す。ここでも時間は何度も繰り返す。

あるいは春夏秋冬。季節はめぐり、繰り返す。循環性を持つ。今は秋だ。秋の紅葉は、落葉を暗に示し、冬の葉の無い木々は、春を待ち、春の芽吹きを暗に指し示す。あるステップはそのほかのステップを暗に示している。そして暗に示していることへと、ものは生起していく。時間は、この意味では単に線型的ではない。これは言われてみれば特段珍しいものではない。

ある意味で、時間はガムテープやメジャーのようなものかもしれない。それはぐるぐると同じところを回って循環している。しかし、その循環は、まったく一本に、直線状に引き延ばすことができる。ガムテープは丸い。しかし、それを引き延ばせば、一本の線にもなる。

既存のパターンや概念よりも複雑なもの。

これは、結構色々考えてみると面白いものだ。

「パターンや概念としてすでに特定されているものよりも、生起や暗なる示しの方がいかに複雑であるかということ」。

我々が概念化し得る以上に複雑かつ精妙な秩序がじっさい存在するのだろう。そしてたぶん「宇宙のすべてを説明し得る唯一の・統一的な原理を定式化すること」は永遠に人類の夢なのだろう。

 つづき↓

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