ちらかし読みむし

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ジェンドリン『プロセス・モデル』(Gendlin "A Process Model")イントロダクションを丁寧に読む⑦ 非特定の豊饒性

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 フッサールは言う。「我々が聞くのは、音soundsではない。我々が聞くのは、バイクであり、ドアがバタンと閉まることである」。我々が聞いているのは「単なる音だけ」ではないことを我々は理解することができる。しかしフッサールは我々のボディが暗に指し示しているものを指摘はしなかった。それは感じられる仕方で暗に指し示すのであり、また「このドアがバタンと閉まる」ことを超えている。フッサールは指摘しなかった。「その全部all that」を伴いやって来る、非特定の豊饒性(unspecified richness)を。例えば、「カウチがあそこに見えるということ」は、そのカウチを対象として規定しているように思われる。しかし、「カウチがあそこに見えるということ」はすでにして次の事を含んでいる。「もし私がそうしたければ、座ったり横になったりすることのできるように、カウチがあそこに-わたし-のためにあるのは、どんな風にであるのかということ」「もし私がその傍を通るとき、どんな風にカウチにぶつかりたくないかということ」、そしてその他多くの未だ特定されていない相互作用。「カウチがあそこに見えるということ」はこれを含んでいる。Gendlin "A Process Model"p.XX

単なる音だけonly sounds

 前半のところは、当たり前と言えば当たり前だ。わたしが聞いているのは、車の通りすぎる音であって、「単なる音だけ」ではない。「何なのかよくわからない音」は、「何なのかよくわからない音」として聞き、何だろうと興味を持って(あるいは警戒して)わたしたちはそれに耳を傾ける。わたしたちは音を「何かの音」として聞いている。

ここで言う、「単なる音だけ」というのは、「純粋な音」のようなものだろうか。つまり、「車の」とか「ドアの」とか「何なのかよくわからない」というような、意味付け(それが"何であるか")を脱落させて、純粋に聴覚情報として聞こえるような「単なる音」(として想定されるような音)。「単なる音」というものがそういうものを言っているとするならば、もちろん、「単なる音」は理論的には構成可能だろうが、わたしたちが現実に経験している音は、そういうものではないだろう。わたしたちは音を、何かの音として聞く。

非特定の豊饒性

加えて、わたしたちの具体的な体験は、相互作用をも含んでいるという。

どのように相互作用するかは、必ずしも言語化されてはいない。むしろ、言語化されていないほうが多いだろう。ここでは、カウチの例が挙げられているが、カウチの存在は、私との関わり(相互作用)における、カウチである。単にわたしと切り離された別個の存在ではない。「私との関わり(相互作用)において、カウチがどのように在るか」ということ。わたしたちはカウチを見たり、思い浮かべる時、「それ」を感じることができる。「それ」は、いちいち言葉にされはしない。「それ」がここでは"「その全部all that」を伴いやって来る、非特定の豊饒性(unspecified richness)"と言われているのだと思う。

わたしたちは、単なる音、単なる色、単なる形だけを見聞きしているのではない。音を聞きものを見る時、何かの音や何かの色・形としてものを見、聞き、それと同時に、自分とのかかわりにおいてそれがどのようにあるかということも、感じ取っている。たとえそれはいちいち言葉にされていなくても。

 

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