ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

野坂祐子『トラウマインフォームドケア "問題行動"を捉えなおす援助の視点』読後メモ

野坂祐子さん『トラウマインフォームドケア "問題行動"を捉えなおす援助の視点』を読了した。

というのが、率直な感想。

以下すこし、この本のご紹介や読後の雑感の整理を。

”問題行動”って例えば?

詳しくは後でまとめるが、見えている「行動(問題行動)」を、「トラウマ」というメガネをかけて見てみよう、そして対応してみようというTICの提案のようである。本書の副題「"問題行動"を捉えなおす援助の視点」にも「問題行動」という言葉が含まれるが、具体的にはどういうものか。

「行動(問題行動)」とはたとえば以下のようなものがある(p.5より)とされる。
 ・暴力
 ・暴言
 ・対人トラブル
 ・薬物やアルコールへの依存

が、野坂さんが本書で描写する事例はどれも、生々しくリアルなので、事例を読んだほうがイメージをすぐにつかむことができると思う。また野坂さんの文章の魅力を伝えるためにも、例として、「小学生男児」と「担任」の事例(p.61~)を紹介します。

 

~担任と二人きりの場面で、男児は担任に暴言を吐くという。他の教師とのあいだでは機嫌よさそうに話しているので、「自分だけうまく対応ができていないのかもしれない…」と担任は周囲に相談もできず、組織の中で孤立し、男児への陰性感情を深めていく。~

担任のビクビクした態度やうんざりした気持ちをまるで見透かしているかのように、男児は「仕事、辞めたら?」「本当は、僕のことを殴りたいくせに」と”うすら笑い”を浮かべて近づいてくる。p.62

「問題行動」とは、たとえば現場で起こるこのような男児の振る舞い方を含むだろう。それはこのように他者を巻き込み波紋を広げていく。

担任は、頭のなかで「この子は、おとなの愛情を確認しているだけだ」「挑発に乗ってはいけない」と繰り返し、こみあげる苛立ちや嫌悪感をなんとか抑えていたが、ふと「小学生相手に、何を必死になっているんだ」と思った途端、何もかもバカバカしくなり、気づくと男児の首筋をつかんで廊下の壁に押し当てていた。

  頭が真っ白になり、自分の発した罵詈雑言は覚えていないが、目のまえの男児が「ほら、やっぱり」と言わんばかりの表情で自分を見ていた目つきだけが記憶に残っていた。p.62

「トラウマインフォームドケア」Trauma-Informed Care:TICとは何か。

そもそも、「トラウマ」とは、「生命に関わるような危機とそれがもたらす影響」(p.3)を指す。「地震雷火事おやじ」ではないが、自然災害や事故、さらに家族などから暴力を振るわれる(あるいは振るわれているのを目の当たりにする)…などが具体的な出来事の例となる。

では、「トラウマインフォームドケア」Trauma-Informed Care:TICとは何か。

TICとは、行動の背景にある"見えていないこと"を、トラウマの「メガネ」で"見える化"するものであり、支援における基本的な態度や考え方である。トラウマの治療や心理療法ではなく、誰もがトラウマの理解に基づいて対応できるようになることが目指される。p.5

例えば、頭痛がする、熱がある、咳が出る、体がだるい…といった体調不良があったとする。わたしたちは、「かぜ」という概念を知っているから、「市販薬を飲む」とか、「内科に行く」と言った対処ができる。頭痛・熱・咳…といった前景(症状)に対して、「かぜ」(かもしれない)というメガネをかけて、理解と対応を試みるわけである。「かぜ」「インフルエンザ」についてなら、日本人なら大概の人が知っている。そして、それにかからぬよう予防の方法を知っている(うがい、手洗い)。またそれらにかかった時の対応方法を、知っている(病院に行く。人に移さぬよう接触を控えマスクをする)。カゼやインフルエンザなら、だいたいみんな大人になる前の段階で、身近な大人たちから、「インフォームされて」(お知らせされて)いるものだ。

それと同じように、「トラウマ」の基本的な理解と対応を「誰もが」「お知らせされている」こと。それが目指されるのがTICのようだ。「トラウマ」について「インフォームされた」(「お知らせされたうえでの」)「ケア」ということ。

 

上記の例では、男児は父親からDVと暴力を逃れるために、転入してきている。そのことへ配慮したうえでの学校のあたたかい対応がなされていたが、「暴力をふるうーふるわれる」という関係性になれた男児にとっては、安全な学校がかえって信用できない。それゆえに、「大人は暴力をふるうもの」という慣れ親しんだ世界観が再現された方が、かえって彼にとって現実は予測可能なものとなり、コントロール感を得られる。そうして繰り返される担任への挑発的な言動は、「トラウマの再演」と言うのだそうだ。

 

このように「トラウマ」というメガネをかけて、何が起こっているのかを理解しようとすることが助けになるということ。無論、この事例でも、暴力・DVの影響を踏まえた上での男児へのあたたかい対応であったというのだから、まったく理解がなかったのではないだろう。しかし、「愛情を確認しているだけ」という理解であるのと、「安全であるのがかえって信用できないが故の、行動化」という理解であるのとでは、きっと支援者側の心持も違う。理解不能な問題行動より、より納得的に理解可能な問題行動のほうが、息長く関係を持つことができそうではないか。

支援者もトラウマを受ける

わたしは、障害福祉領域で仕事をしているが、このような「暴言」を吐かれたことは何度もある。「なんでそうなんですか!!」「おかしいんじゃないんですかぁ!?」「全然話にならないから担当変えてください!」。いくら丁寧に説明を繰り返しても、執拗に苛立ちと不信を重ねてこられる。

 

そういうときわたしは、「そこまで言われる筋合いはない!」「わたしにそのような言い方で主張したところで、事態がよくなるわけでもないのに、この人のやっていることはおかしい!」という憤りや苛立ちと、「自分の対応が悪かったのではないか…」「この人をわたしは受けとめることができず、内心で批判してしまっている…」という罪悪感や自己不信に引き裂かれてしまう。担当しているケースでそのようなことが起こっていることを話すと、同僚や上司にダメ出しを食らい、よけい傷つくのではと恐れ、抱え込み、視野狭窄に陥り、気分も重たく、電話が来るたびにあの人からでは、とビクビクしている…。

トラウマを受けた人から不信や怒りを向けられることは、支援者に深い傷つきと恐怖をもたらす。それらは生々しく、容赦のないものである。p.107

事例の「担任」もそうだったかもしれない。

場全体の安心・安全の回復

それゆえに、

…TICの対象には、援助サービスを受ける人だけでなく、支援者も含まれる。トラウマ臨床においては、支援者も直接的・間接的にトラウマの影響を受けているからである p.106

わたしが、「これは支援者も救われる本だ」と感想を述べたのは、そういうわけである。TICの対象は支援者も含む。

ところで、

トラウマからの回復とは「安心・安全」を獲得する過程にほかならないが、支援の基盤になるはずの「安心・安全」が失われた状態で支援をしていかなければならないという難しさがある。pp.80-81

また、

支援者の何気ない対応やよかれと思っていやっていることが、思いがけず対象者に再トラウマを与えている例は少なくない。p.98

それを踏まえて、以下は、雑感と覚書き。

  • トラウマからの回復を支えることはほんとうに難しいこと。「トラウマ臨床は、乱気流のなかを飛行するのに似ている」(p.147)
  • 対象者に再度苦痛を与えてしまうかもしれない。そのことに私は罪悪感を抱く。また対象者からの直接的な言動により、トラウマの影響を受けることはこれからもある、おそらく。
  • トラウマからの回復とは、「安心・安全」を獲得する過程に他ならない、と言う。それは、対象者・支援者の、両者について言えることではないか。
  • 支援者の「安心・安全」も重要だ。無論、「サービス利用者の福利の優先」を原則とする、ある意味自己犠牲的な職種の我々ではあるが、それは支援者の「安心・安全」が損なわれると、対象者への「安心・安全」も損なわれる。
  • 支援者が「安心・安全」を感じることができることが、対象となる人びとの「安心・安全」にも寄与する側面があるならば、「場全体の」回復を視野に入れなくては。
  • ぼろ船で荒波を行くことはできない。対象者ひとりひとりだけがケアの対象なのではなく、自分自身、同僚、そして組織自体が、ケアの対象だということ。
今は次の言葉を、希望の言葉として受けとめたい気持ちでいる。

トラウマが「よい思い出」になるのではない。つながりの中で歩む回復への道のりが、人生を豊かにし、「新たな思い出」をつくりだしていくのである。p.49