ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

臨床を続ける一握りの勇気。『誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論』松本俊彦先生の新著を読んで

 精神科医の松本俊彦先生の新著、『誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論』を読みました。以下、この本のちょっとした紹介と、覚え書きです。

 

 みすず書房から出ている、装丁もとても美しい本です。
 著者は言わずと知れた薬物依存症や自傷行為などの治療で有名な精神科医の松本先生ですが、アディクション領域に足を踏み入れたのはまったく不本意な医局の人事によるものだったという告白からスタートします。
 専門的な内容というより、松本先生の体験されたエピソードが多く語られているので、とても読みやすいです。「え、松本先生、こんなプライベートなこと、赤裸々にされて、大丈夫なの…?」と思うほど(高校時代の恋バナとか)。シリアスでシビアな現実を語る「真面目」な本ではありますが、堅苦しくなく、読み物として楽しめる部分もあると思います。
 
 例えば、たしかちくま新書『薬物依存症』に高校がとても荒れた学校で、シンナーを使っている生徒も多かったが、そのうちの多くが自然に治療を受けることもなくシンナーをやめていったこと、一方でやめられない人もたしかにいてそれはなぜだったか、について書かれていましたが、松本先生の通われていたその高校の様子や友人とのエピソードが、この本では実際に描かれています。まるで一個の青春ドラマのような感じです。

 

 ところで、松本先生は外来診療日の朝は憂鬱で処刑台に向かう囚人のような足取りで診察室に入るといわれるのですが、これには大変癒されました。朝9時前から夕方6時までそこから出られず、出ては入って来る患者さんとそのあいだじゅう、関わり続けなくてはいけない。先生にゆっくり話を聞いてもらいたい患者さんも多い。一方でまだまだ待合室で待っている患者さんもおられる。そんなとき、「では、お薬を追加しておきますね…」という言葉が、解決策にはならないことを承知の上で苦痛から逃れるために口をついて出てしまうというのです。

 

かくして患者は薬物依存症に、そして、精神科医薬物療法依存症になる。p.192

 

 わたしが癒されるのは、松本先生のように実践を積み重ね、様々な本を出し、TVにも出演するような「偉い先生」でも、このような悩みを抱えているのだという事、そして過ちや弱さを率直に告白する姿に心打たれるからです。

 

 また、これはこちらも最近出たばかりの森川すいめい先生の『感じるオープンダイアローグ』とも交差するところだと感じています。それは2点においてです。一点目はこの本でも著者が権威の陰に隠れることなく、自分自身をさらけ出している点。もう一つは、精神科医療の構造的な問題への批判的意識という点(なぜ日本では処方薬および入院患者数が国際的にみても多いのかというと、そのどちらもがロー・コストだから。薬の処方はじっくり話を聞いて相手を理解しようとし一緒に悩むより、よほど手っ取り早い解決策だし、もともといたコミュニティで行う個別的なケアより、入院という画一的な集団処遇・管理の方が手はかからない…)

 わたしも精神保健福祉の領域で仕事をしている人間ですが、すぐさま解決しようのない(手っ取り早い解決策のない)矛盾や葛藤を抱えたまま生きていく上で、一握りの勇気をもらった気がしています。

 

『誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論』 目次

「再会」――なぜ私はアディクション臨床にハマったのか
「浮き輪」を投げる人
生きのびるための不健康
神話を乗り越えて
アルファロメオ狂騒曲
失われた時間を求めて
カフェイン・カンタータ
ダメ。ゼッタイ。」によって失われたもの
泣き言と戯言と寝言
医師はなぜ処方してしまうのか
人はなぜ酔いを求めるのか

ソーシャルワーカー各々が固有の理論を持つこと

ソーシャルワーカーの各々が、実践の理論というものを作っていかなくてはならないのではないか、ということを考えています。

 

ソーシャルワーカーは所属する機関の性質によって実務の在り方というものが、大きく変わってくるものです。所属する機関とそこから期待される役割、制度的な制約、逆に言えば付与される権限は、ワーカーの属する場の性質によって様々であるはずです。例えば、退院調整を機関の役割として期待される、とかケアマネジメントが主たるその機能であるとか、就労の指導を行うことが機関の主たる役割である、などなど。

 

2014年のソーシャルワークのグローバル定義には、「ソーシャルワークの実践は、さまざまな形のセラピーやカウンセリング・グループワーク・コミュニティワーク、政策立案や分析、アドボカシーや政治的介入など、広範囲に及ぶ」と述べられています。つまり、ソーシャルワーク実践の具体相としての「何をするか」は、本当にさまざまな水準があり、画一的なものではありえないわけです。先ほど述べたような、機関の性質、介入のターゲットとなるシステムの大きさ、ワーカーとクライエントが存在する地域の性質、クライエントの好み、ワーカーの持つ権限、等々によって、ソーシャルワーク実践の具体相としての「何をするか」は、多様な仕方で規定されてきます。

 

無論、ソーシャルワークのプロセスとしての基本形は存在するはずだという指摘は、もっともなことです。インテイク、アセスメント…といったおなじみの概念によって私たちの実践を或る程度共通的に記述、説明することは可能ではあるでしょうから。しかしながら教科書を読んでみても、感じてしまう、実践現場とのあの懸隔。せっかく勉強したのにあまり有用と感じられない経験。それらがつきものであるのは、理念型としての基礎理論は、理論として、ある程度の汎用性を獲得しようとするその代償に、実践現場での具体相にともなう個別具体的ななまなましさをそぎ落としてしまうからではないか。

 

結局のところ、理論を現場で展開すると、その場に適合するために、実践は多様な形態をとらざるを得ません。それは昆虫が、自身の住処(沼地、砂地、海辺…)に応じ、そこに適応していくために、自身の姿を変異させ、種として分化していくことに似ています。自身の「現場」において、固有の実践が、抽象的な(ソーシャルワークの実践)理念を展開していくためのさまざまな工夫とともに、創造的に織りなされていくことが必要となります。

 

よって、そのような基礎理論を、一種の抽象的な座標軸として参照しつつも、自身の実践の現場にフィットするようなある種の「特殊理論」が個々のワーカーによって生み出されてくることが意味を持つのではないだろうか、と思います。

 

理由は2つありますが、まずひとつは、そのように自身の実践を言語化することによって、それをソーシャルワークの理論や価値と照合し、批判的に吟味しつつ、ソーシャルワークの文脈に定位することができるようになるから、というものです。つまり、理論化していったん目の前に置くことによって、さらに実践を発展させていくことができるようになる、というのが一つ。

 

二つ目。それは、特殊な理論のもつ固有の説得力が人を鼓舞するからです。それは、普遍理論ではなく、特殊理論であり、よって汎用的な実用性は高いものとはならないはずです。しかし、特殊な実践を特殊なままに語ることは、普遍的ではあっても無色透明な基礎理論を語るのとは異なる種類の、説得力をもつのではないだろうか。そしてそれは、そのまま別の現場で適用はできなくとも、人を鼓舞し、触発するのではないか。そのようにも思います。

主体の対象化×コロナ

『ナラティヴ・セラピストになる』を読んでいる。前回途中で挫折したものの再チャレンジ。「ナラティヴ」は「ナラティヴ」という一見親しみやすげなおもて向きと裏腹に背景理論は結構複雑で難しい。

この本で登場するミシェル・フーコーの「主体の対象化」の様々な様式の議論、今回のコロナウィルスの騒動に当てはめて考えてみると、わかりやすいかもしれない、と思い、以下で咀嚼しつつメモしていく。

フーコーの言う「主体の対象化」には、みっつあるという。

 

1、分割の実践


「分割の実践」には「社会的なもの」と「空間的なもの」が有る。。
社会的な分割の実践とは「差異を示すために、ある特定の社会集団が対象化の手段に服従させられること」。
これを私なりにかみ砕いた理解はこうだ。
社会的な分割の実践とは、
「社会の中にいる"ある人たち"は、他の人たちとは違うんだという事を、はっきりとしたい。そのために、その"ある人たち"は、なんらかのやりかたに従ってもらう」

コロナウィルスの感染者は、外部の人たちとの接触が制限されたりする。あるいは出社を拒否されたりするかもしれない。これは一定の処遇に服従させられているということでもあるだろう。そういうことをすることによって、感染者は非感染者と違うんだ、という「差異」が浮き彫りになる。コロナ感染者であるか否かは、今の社会においてとても大きな「差異」を持つ。世の中には、「差異」はあまた存在する。男であるか、女であるか。メガネをかけているか。かけていないか。おそらく「キノコの山が好きという一群」と「たけのこの里が好きという一群」は差異は差異であるが、わざわざその社会集団に属していることによって、ある一定の扱いを被り従わなければならないことによって際立たされる重要性のある差異ではない。しかし、この社会(例えば日本)で、「たけのこの里が好き」と公言することによって、罰金を支払わなければならないという特別な処遇を受けることになってしまったら、キノコ派か、たけのこ派かという差異は差異として際立って示されてくることになるだろう。コロナも同様である。いずれ薬を飲んで一晩寝れば完治するようになれば、コロナに感染しているかどうかということは、大きな差異をもって示されなくなるかもしれないが、今はそうではない。感染者あるいは感染が疑われている段階で、社会から特定の処遇を受けることに服従させられている。その「差異」は大きい。

空間的な分割はその「差異」故に、物理的に周りの人たちから分離されてしまうことだと言う。コロナでも感染者は、病院など物理的に分け、隔てられることが正当化されている。

こうした分割の実践が、「主体の対象化」の第一の様式。主体(人)が、社会的に分割・区別され、一定の区画にくくられ、「モノ」的に扱われその扱いに対して服せられるようになる、ということか。

 

2、科学に基づく分類


科学の分類も、身体をモノとみなしていく営みだという。
興味深いのは、科学の分類は、社会規範を明確にするという機能を担っているということだ。

たとえば、病気の分類は、自然界に客観的に存在する何か(例えばコロナウィルス)について研究し、分類することだと普通考える。端的に言えば、病気の分類は、人間社会とは別に存在する、自然の研究なのだと。しかし、病理に関する科学の分類は、正常か、異常かをめぐる社会的な規範・規格をめぐる議論なのだと考えるならば、コロナウィルスという存在者・新型コロナ肺炎という新しい「分類」は、私たちの「正常」をめぐる人間規格に根を持つのだという理解に導かれる。このように分類は、正常か異常かを特定するという社会的な営みだと考えるなら、おそらく分類を研究することは、実は社会(人間)を研究することになるのだろう。


何故、新型コロナが分類され、今現在これほどに際立たされているのか。
例えばこのような理解が可能だろう。

・当人には熱や咳といった症状が出ていないにも関わらず、一緒にいる人には感染が広がり、場合によっては死に至る、そのような身体は「異常」である。

科学によって分類されることが、主体の客体化の実践の様式の二つ目。

 

3、主体化


社会に存在する規範を、自分の中に取り込む。そしてその規範に照らして自分自身を監視する。つまり、他者からの評価的なまなざしを自己の内側に内在化し、それにしたがって自己の振る舞いを統制するということ、社会規範に従って自分を自分で監視すること。そこでは個人が「より受動的で抑圧された立場をとるようになる」と言われるが、社会にとってはこれほど都合の良いことは無い。なぜなら、自分で勝手に自分を監視して社会の規範を再生産してくれるから。

これをコロナに当てはめるとどうなるか。
わたしは、外に出かけるとき、マスクをする。当然のこととして。そしてあえてそれに反発するでもなく、従順に従っている。外に出ても咳やくしゃみを我慢する。食事の時もあまりおしゃべりしない。これらは、すべて、社会規範(他者の評価的まなざし)を自分の中にとりこんで、自己監視しているからだ。

しかしこれが主体の対象化の実践様式の一つである、ということの意味がよくわからない。結局、この文化規範が取り込まれ主体の一部になってしまうということは、逆に言うと、主体が完全に従属させられモノ化してしまう、ということだろうか。極端な比喩を使うなら、文化規範というプログラムを取り込んでそれによって人が自己監視をすることによって、決められた規範に従属するだけのロボットのようにふるまってしまう、よってこれは客体化の様式の一つなのだ、と。そのように理解してよいのなら理解できる。

 

※雑記

コロナ騒動に伴う、人々の行動様式の変更は、人々の社会的・空間的分割、科学的分類に権威づけられ逆に科学的分類を権威づける文化的規範、人々の自己監視を含む。コロナに関しては、個/多様性より集団/一様性(「みんなで」「同じよう」に。例:マスクの着用はみんな・同じようにが求められる)が優位な原理であることは明らかに思われるが、わたしたちがこれを自覚的に選択しているのだとするならば、わたしたちが選択している価値が何であり、犠牲にしている価値が何であるかがあえて問われることが、私たちの姿を相対化し、別の何かを容れる余地を生む。また、感染を拡大させないこと・病気にならないこと・病気にさせないことを自明な価値とみなすのでなく、異なる価値の可能性を想像すること。自明な価値に抑圧されている誰かの存在に思いを馳せてみること。異なる価値の可能性を成立させる世界観は何であり、上記の自明と思われる価値を支えている世界観は何であるか、あらためて問うてみること。

菅首相誕生に際して

菅さんが、首相になるのだとか。

 

政治の世界は複雑で、全体を見通することなど困難なのは承知ですが、だからといって知らぬふりをしているのは、もったいない。

 

そのように感じるようになったのは、①ひとつには、わたしが福祉の業界で務めており、今の政治の在り方が、今目の前にしているクライエントさんたちの生活に結果として大きく作用するということ、②もうひとつには、今の政治の在り方が、わたしたち福祉職の生活(待遇や制度の在り方など)にも結果として作用するのだということに、ようやく理解の結びつきが得られてきたから、というところです。

 

どうせだれが首相になったところで何も変わるまいというある種のあきらめは、継続的に政治に関心を持ち続ける上で妨害的に作用します。また、今回のように、願っていた方向に政治の世界が進んでいかないことが、明らかになってしまうと、失望や無力感、さらには先行きに対する困惑といった感情も生まれてきます。こんなことになるなら、初めから政治の世界になんか関心をもつべきでなかった、という気すらしてきます。

 

「政治の世界」と(クライエントさんや私たちの)「生活」との結びつきといったところで、しかしこの二つの間に横たわる懸隔の大きさはかなりのものですから、そういう意味でも、政治の世界に対してわたしの取り得る役割というものは微々たるものだということは明らかで、そのこともわたしを無力に感じさせます。

 

しかし、そうではあっても政治の世界に関心を持ち、少しずつでも学んでいこう、そして応援すべき人(政治家)を応援しようというのがなぜかと言うと、私の場合、それは私たちのくらす社会の先行きに対する恐れによっています。本当にこのままいって、大丈夫なのだろうか。そのような恐れが、無力感を上回っている。

 

おそらくわたしは死ぬまでこの国にいるのだろうから、ゆっくり少しずつではあっても、政治について関心を持ち続け、学んでいきたい。そういう気持ちにさせられています。本当に、知らないことが多すぎる、と。

なぜ人が辞めていくか。福祉領域の職場の退職・離職

わたしは「ソーシャルワーカー」と言って、援助職の端くれだが、この業界(福祉界隈)は、辞めていく人がとても多い。実証的な統計的データはきちんと調べてはいないが、現場に身をおいてから、いつの間にかそう思うに至っており、それを自明視している自分に気づく。では、なぜそう思っているのか。なぜ人が定着せず辞めていくのか。
なかなか生々しくてつらいテーマだけれど、そうしたことについて書いてみようと思います。

辞めていく人が多い

わたしの業界って辞めていく人、多いんだな。とは、初めから思っていたわけではなかった。新卒で求人を探し、就職活動をしようとしていた時なんか、まったくそうは思っていなかった。今や私自身あたりまえだと思っているわけだけれど、あらためてなぜ今私はそう言い得てしまうのか。

まずわたしの職場での退職者の数は相当なものだという経験的な事実がある。わたしの職場は20名程度の小規模なのだけれど、5年以上残っている人は、2人か3人か。たかだか20名規模の組織で、毎年、2人、3人場合によってはそれ以上の人数が辞めていく。「でもそれはあなたの職場が特殊なのでは? 福祉業界一般がすぐ人がやめるというわけではないのでは?」という人もあるかもしれない。そうなのかもしれない。同じ業界でもわたしの勤め先は標準異常なのかもしれない。でも、たぶんそれはうちだけではなく他の所もそれなりに人の入れ替わりはあるのでは、と思う気持ちもある。


その証拠にindeed(求人検索のサイト)で検索してみても(社会福祉士精神保健福祉士)年がら年中、この業界の求人には事欠く様子はない。しかも、見たことのある名前の法人が、何度も何度も求人を出しているのは、ひとつやふたつではない。それにふだん仕事柄お付き合いのある外部の関係機関の担当者も、そういえばいつの間にやらいなくなっているという事態もまれでない。

だから、人の入れ替わりが相当激しいのは、わたしの勤め先に限った話ではないのだろう、少なくとも、求人検索をよくかけているわたしの街、A市の福祉業界は、人の入れ替わりが相当多いのだろうとわたしは勝手に思っている。(とは言え、福祉業界と他業界を比較したわけではないから、多いのか少ないのか、厳密に考えると言えないのかもしれない。そういう意味では、「多い」という評価はいくぶん主観的なものなのかもしれない)

負の連鎖

よく冗談で、職員の入れ替わりの回転率は牛丼屋並だなんて笑ったりするが、現場で働いている人間からしたら、笑えたものではない。いや、笑っているのは、笑えない状況だからだ。笑えない状況だから、自虐的に笑うしかない。

 

なんとなれば退職者が出たら、その人から引き継ぎを受けるから残された人間は単純にまず業務の負担が増える。さらに新しい人が無事見つかり来てくれるのか、という不安もある(なにせこの業界、求人も多いのだから、うちのような弱小法人に人が応募してくれるのか?)。よし人が応募して採用されたとして、その人材はどんな人物なのか? 新人だが自分よりも数十年年が上だなんてこともざらにある。そしてその新人に、職場のトイレやら更衣室の場所やらティッシュペーパーのしまってある場所やら、パソコンのログインの仕方やらなにやらの一切合切を教えなければならないのだ。

 

…という事態が、一度や二度ではない。「○○さん、ようやく覚えてきた、慣れてきたな」と思う頃に、彼/彼女は旅立っていく。そうして人が定着せずに辞めていくという事は、スタッフ同士の人間関係が安定しないことを意味する。それはまた組織文化が育まれないことを意味する。そして何より利用者に対するサービスの質が向上しないことを意味する。

 

そういう現場では、常に引継ぎが行われ新人教育が行われているということで、具体的にはトイレットペーパーの在庫の在りかを何度もレクチャーするというようなプロセスを1度、2度となく幾度もリピートすることだから、大変な労力のロスである(人が定着するならそんなこと一度教えれば済む話なのに)。牛丼屋並の回転率で、何とか事業所を維持しようとすることは、そういうことだ。人の入れ替わりの激しい職場に残されたものは、しだいに空いた穴をふさぎ続けることにくたびれていく。志があって現場に入り、最初は職場の窮状に闘志と使命感を燃やしていたとしても、しだいしだいに、ペダルをこぐのをやめてしまえば倒れてしまう自転車につかれてしまう。しかもどこに行きたいのかわからず、ただ倒れてしまわない(事業所がつぶれないようにする)ことそれ自体が目的化しているのではないかという気すらしてくる(これは私の話か)。

 

シーシュポスの神話ではシーシュポスには逃げ場はなかった。でも、わたしたちには、この連鎖から抜け出す方法がある。それは、自分自身がこの職場を辞めていくことだ。そうして、自分自身もまた、この悪しき連鎖の一端を結果として担うこととなる。

なぜ辞めるのか、という問いに対する仮説

「なぜ、人が辞めるのだろう。人材が定着しないのだろう」。

この問いに対する仮説の一つは「人が辞めるのは、人が辞めるから」である。

 

人材が定着しないのは、

① 人が辞めると、残された人が大変になるから。残された人は擦り切れていく。そして今度はその人が辞めていく。するとその時残される人が大変になり…。
 
② 辞める人がいるのが当たり前の現状を目の当たりにし、辞めていく人の前例を多く見るほど、辞めることへの心理的な敷居も小さくなっていくだろうから。


③ さらに、福祉業界全般が求人に溢れているのならば、辞めても次のあてがあるから。そういった意味で「辞めやすさ」の高い業界だから。(そうして辞めることで、求人票が一つまた増える。そうしてだれかの「辞めやすさ」を増大させる)

 

無論、これはわたしの現場での狭い経験をもとに考えたものに過ぎないのだから、どこまで普遍性がある仮説なのかはわからない。それに、人が辞めていく理由は他にも思い当たる。

書いていると、過去の色々な先輩や後輩や、職場でのいざこざなど思い出し、どよんとしてくるのだけれど…気が向いたら改めて書いてみようと思います。

つづく

実習生に教わったこと

しばらくのあいだ、職場にPSWの実習生が来ていた。

 

毎年感じることだが、職場に外部の人が入って実践を見て行かれるということは、とても新鮮な風が吹き込む感じで、身が引きしまる。

 

今年の実習生は、業務や実践の意図などいろいろと熱心に質問され、静かに耳を傾けてくださった。それによって普段当たり前に行っていることについて、改めて語るという大変貴重な機会を得ることができたわけだ。わたしは長話にならないよう自制しつつ、少々得々とした気分でいろいろ話をさせてもらった。

さて、謙虚な姿勢で職員の話を聞いておられる姿から、想い出したのは、ハーレン・アンダーソンの言葉。

 

「無知の姿勢とは、セラピストの取るひとつの構えであり、態度であり、信念である。つまり、セラピストはひとり特権的な知識を享受できないし、また他者を完全に理解することはできない。他者から常に「教えてもらう状態」を必要とし、言葉にされたことされないことも含めもっとよく知りたいと思う。このような態度であり、信念である」『会話・言語・そして可能性』p.175

 

「無知の姿勢」。
実践を重ねるほど、様々な仮説や解釈が、聴き手の心の中によぎる。「わたしはあなたのことは、何も知りません。教えてください。学ばせてください」と素直に言う事を妨げる。

実習生は、声が大きかったわけではない。話に説得力があったわけでもない。知識がたくさんあったわけでもない。気の利いた解釈やコメントができたわけでもない。相手の話を引き出す巧みな質問ができたわけでもない。ただ謙虚に、懸命に相手から学ぼうと耳を傾けていただけだ。しかし話し手にとって、それは実に価値のある態度だったのだという事を、今回わたしは身をもって学ばせてもらった気がする。

援助論アンソロジー③ 相互性。援助者の変化、成長

自分も変化するというリスクを冒す

クライエントにそれまでの古い考えから離れてほしいと私たちが願うように、私たちセラピストも自らの古い考えから出て行かなくてはならない。自分も変化するというリスクを冒すことによってのみ、お互いを認め合える会話、つまり対話は、新たな展開を見せてくれるのだから。

 この過程を経てセラピストが変わるのである。私たちの治療倫理のエッセンスは、セラピスト自身が変化するリスクを承知でそれを覚悟するその姿勢にある。

アンダーソン、グーリシャン『協働するナラティヴ』pp.73-74

私たちはみな変化を恐れています

理解することは危険をはらんでいる(…)他の人を本当に理解しようとすれば、その理解によって自分自身が変わってしまうかもしれないのです。私たちはみな変化を恐れています。

カール・ロジャーズ『ロジャーズが語る自己自身の道』p.23

セラピストもどこかで成長していなかったら

クライエントによって自分が成長しないようなカウンセラーだったらクライエントは治らない。患者がよくなっているときは、何らかの意味においてセラピストもどこかで成長していなかったらだめです。それは本当に相共にするものです。

河合隼雄河合隼雄のカウンセリング入門』p.177

 

クライエントに与えるばかりでなく、クライエントから受ける用意がなければ

(…)ソーシャルワーカーは、クライエントに与えるばかりでなく、クライエントから受ける用意がなければ、クライエントにとって本当の援助とはなりえない。(…)ひとつの全体として意義深い仕方でソーシャルワーカーがクライエントに依存していることがあるとすれば、それは、クライエントに関して援助的役割をとらせてもらっていることである。こうした役割の特権的性質を十分に認めている人びとにとっては、これは、真に実質的な「贈り物gift」となるのである。

ゾフィア・T・ブトュリム『ソーシャルワークとは何か』p.131

サービスは互恵的なものなので

クライエントのパーソナリティが変化したか、また正しい方向に変化したか。すなわち、解放された活力と独創力が高い、より良い欲望と、より健全な社会関係の方向にむけられているか。ソーシャル・ケース・ワーカーは、パーソナリティに対する本能的な畏敬の念と、人間として人間に向けられる暖かい人間的な関心をもつことによってのみ、以上の疑問に答えていくことができる。しかし、肯定的に答えていくためには、ケース・ワーカー自身にとってもパーソナリティの成長が必要である。サービスは互恵的なものなのである。

メアリー・リッチモンド『ソーシャル・ケース・ワークとは何か』p.163

そういう客観的な態度ではなく、共に生きていくということです

河合 言いたかったら言ってもいいです。世の中にいかんということはないです(笑)。いちばん大事なことは、そういうことを言った後、クライエントの反応を見て、聴かないといけない。だからクライエントと共に成長するということです。

——クライエントをモルモットにするわけですね。

河合 そういう客観的な態度ではなく、共に生きていくということです。

——カウンセラーの進歩発展のためにクライエントを犠牲にしてもかまわんというようなことを聴きますが。

河合 それは言葉のあやでしょう。

河合隼雄河合隼雄のカウンセリング入門』p.182

 

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