ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

令和3年11月6日 寝休日

今日は一日寝て過ごす。

一度朝8時ころ目が覚めたあと、朝ご飯をとるのもおっくうで布団の中で本を読んでいて、11時ころ過ぎで眠ってしまいました。気づけは14時前。空腹で、ヨーグルトとバナナとシリアルを食べ、もう一度読書をしているとまた眠ってしまい、16時半ころ、起きるといった具合。海辺に針葉樹が5本ほど見事に立ち並ぶ風景と、英語で文字の刻まれた碑の前でバスタオルをかぶって着替えをしようとしているという奇妙な夢を見ていました。

外は寒いし、家を出るのもおっくうで、出前でピザを頼み、夕食はすませてしまった。

やるべきことはたくさんあるはずで、青空広がる貴重な一日を徒に過ごしてしまったことに後悔しつつ、思うように体が動かないのは、もどかしくもあるのですが、からだが休養を求めているのだから、何もしない日も必要だったのだと自分に言い聞かせています。じじつ、字を打つ手を休め、いま・ここに呆っと漂っていると、からだが喜んでいるのがわかるので、いま、わたしが必要としているのはそういうことなのでしょう。

令和3年11月3日 東大寺の宝物

今日は、友人に誘われて、美術館へ。
展示は、「正倉院宝物」。要は、奈良の東大寺(大仏で有名な)の倉に納められた様々な品々であるらしい。たとえば、鏡、琵琶、織物などなど。「宝物」と言われるだけあって、素人目にも、ひとつひとつが、非常に凝った作りなのだということくらいは、わかる。例えば、とある琴に描かれたレリーフが非常に面白くて、ただのしましまの模様かと思いきや、目を凝らせばひとつひとつが植物の姿。そして神話上の生物なのか、獅子のようなものが描かれていたりしていて、その生き物は明らかに日本産ではない。

 

品々は来歴が、遠くインドやアッシリア、中国など、大陸の香りを伝えるもので、日本の文化の中に、非常に多様な異国文化が流入されていたこと、そして遠くから運ばれたそれらのものは、さぞ貴重なものであったことなど、想像されます。特にインド由来のものなど、お釈迦さんの生まれの地ですから、人々は、そのようなものを見て、はるか西方の地にあこがれを抱いたかもしれません。

 

それから、東大寺と言えば、華厳宗明恵も一応は華厳宗の僧でしたが、東大寺にはこのような絢爛豪華な宝物が納められていたことを知ると、人々の崇敬にかかわらずこのような寺ではなく、山中にこもっていたことの意味も、少しは理解できるような気がします。

 

まったくの無知で、ただ友人に誘われるままに、訪れただけだったのですが、これはなかなか面白いものを見られた、という感じがしています。おそらく単独では、興味も持たず、わざわざ訪れることもなかったでしょう。友人というのはありがたいもので、自分一人の行動パターンの範疇から引きずり出し、新しい世界へと手を引いてくれるもののようです。

 

令和3年11月2日 手痛い学習体験

同一の事象に接していても、起こることへの反応の違いから、他者と自己の違いに気づく、という体験をしています。といっても、タイプの違う相手から、見落とし・盲点を次々と指摘されるということが起こり、目下凹んでおり、痛みを伴う学習体験であるわけですが…。

 

わたしは、現に起こっている事実とされるものよりも、起こりうる可能性に、関心を抱いているようです。悪く言えば現実に足がついていないということで、状況の把握が苦手ということ。よく言えば、人や物の持つ可能性を信頼するということで、現実を常に別の仕方で認識することができないかと、ふわふわと意識を泳がせているようです。

 

現状をしっかり認識して、物事を合理的に分析し、行動に移していく、ということ。これができると、いわゆる仕事ができる人になれるのかもしれませんが、残念ながら、それは私の苦手とすることです。どうも私のような人間は、単なる「事実」の集積は退屈に感じてしまう傾向があるらしく、例えば、誰それさんの出身地はどこで、年齢は何歳かとか、そうした事実的な情報は頭の中から消えてしまいがちです。

 

それよりも、現実とされるものを動かしている物事のパターンや法則性、あるいは現実を別の仕方で見、別の「意味」を読み取ること。人や物事がもつ、可能性、つまり今と違うあり方。物事に際して、そういう方向に意識は常に向かって行ってしまいます。

 

さて、このような困った人間がどのように人の役に立ちうるか。…という問い自体が、可能性を探求する問いなのだから、やはりもうこれは習癖なのだと言わざるを得ません。MBTIのタイプ論の用語を借りるなら、外向直観型の知覚様式、ということでしょう。

 

さて、明日は祝日。休み明け、どのように仕事へと向かっていけるか。

令和3年11月1日 生活の中の詩情

今日も、ばたばたと過ぎていきました。
午前、とあるクライエントさんから聞かせていただいた生活歴を記録にまとめていると、受診希望の方がお見えになる。来談の経緯を聞かせていただき、医師や外来のナースに伝え、予約の段取りを整え、記録にまとめ…とやっていると、あっという間に、お昼になりました。

 

昼からは病棟に行き、入院している方のお話を聞かせていただく。話しぶりに、ためらいと恐れ、自信のなさのような何かを感じ取りながら、この方が望んでおられることは何だろう、どうすればそれを居心地よく語っていただけるだろうと考えつつ(というより正確には、そのことに想いを傾けつつ)、その方との間合いや、応答の在り方を模索していたように思います。そうこうしていると、あっという間に外勤の時間。役所へ出かけ、手続きを済ませ、戻ると、もう日は傾いています。行きは、今にもぽつぽつと雨がふりそうな、灰色の空でしたけれど、帰りは日の衰えた空に、淡い青が透けているのが見えました。

 

生活の中の詩情というものは、本来万人に与えられているはずのものですが、それを十分に感受し得ているか。「自分の感受性くらい自分で守れ…」というように、感受性はケア可能な一種の力能であると、私は思います。夕闇の帰り道、橋の欄干にかかる真っ赤なツタは、たしかに詩の切片であり得ますが、その闇に浮かびあがる艶やかな色彩に気づき、今日一日かけまわってくたびれ果てたわたしに対する、ささやかなギフトであると思えるかどうか。そのようなギフトにあふれていることに、ほんとうは感謝すべきなのでしょう。

10月のリフレクション

あれよあれよと、通り過ぎて行ったひと月でした。気づけば葉も赤く、風も冷たい。季節の移ろいを味わうこともできず、悔いている。9月の末ころにノートに書きつけた、10月に取り組みたい・心がけたいことも、着手することできず、という状態。とにかく、①職業上、新しい局面に入った気もしており、いくつかの新しい状況に対処せねばならず困惑していたこと。加えて、②上司や先輩からの、いくつかのダメだし(客観的には教育的指導、というべきか)に人並みにへこんでいたこと。これらのことから、朝、夕のプライベートな時間も、呆っと過ごすばかりで、あまり中長期的に有益な行動をとることができず、目先の対処に追われていたように思います。読書は中長期的に有益な行動のうち、代表的なものですが、部屋の中のそこらに、読みかけの本が散らばっている有様。

 

「部屋の中の散らかり具合は、現在の自分自身の精神状況を反映するものである」という命題は、経験上確かなものと私は感じているのですが、今の室内の乱雑さは、あまり好ましいものではありません。精神的に余裕がなく乱れているために、部屋の中も乱雑になっている、という因果関係の向きと、部屋の中が乱雑であるがゆえに、精神的にも落ち着かないのだという、反対方向の因果の矢印も一定程度は、成立するとも思います。そうだとするならば、(職業生活上の困難は、そう簡単には解消できるものとも思いませんが、)部屋の掃除くらいならば、時間をかければ、現実的に実行可能なのだから、せめてそのくらいのことはして、心を整えておきたい。

 

あと、もうひとつ書いておきたくなったのは、周囲の期待と、自分自身が価値を置いていること、というような主題について、です。陳腐な話ではありますが、周囲の期待に合わせて行動しようと試みると、やはり自分を見失うのだ、ということを現在進行形で経験しつつあるようです。相手(上司、先輩…)は何を求めているのだろう、と想像し、それに対して適合させようという努力は無限の苦しみを生むような気がします。せめて、リアルな相手とのやり取りの中で何が期待されているのかを確認することが、妄想や邪推の拡大予防にとって必要なことです。妄想を打ち消すのは、やはり現実との相互作用なのではないか、と。そして、そもそも私は何をやりたいと思っているのか、どのようなことに価値を置いているのか。そのことに改めてフォーカスして、熟考してみる必要もありそうです。

不可視に偏在する権力の社会的必要性と抑圧性『フーコー 主体という夢:生の権力』読書メモ

貫成人フーコー 主体という夢:生の権力』読了。

読書メモ。

 

「権力」とは何か。王様や殿様、会社の社長など特定の人物だけが振るうものではない。「権力」は不可視に人々の間に偏在する。人々が、マスクをしているか互いに監視し合うところに権力はある。

権力とは社会、地域、住民のあいだの秩序生成維持装置である。

権力とは簡単に言えば、ひとびとの行動や思考を司るものなのである。

貫成人フーコー 主体という夢:生の権力』p.93

この考えで言うならば、人々が赤信号で足を止め、青信号で交差点へ進みだすとき、そこにも「権力」はある。赤は止まれ。青は進んでよい。このように信号や道路・横断歩道などによって構成される交通システムは人々の思考と行動を司る。このシステムに従わず万一事故が起これば、お巡りさんがやって来、責任を追及される。お巡りさんの存在もこのシステムに組み入れられていると考えてよい。それらすべてによって、秩序が生成維持され「安全」が守られる。「権力」は人々にとって必要な装置である。

 

そして、学校教育。学校もまさに「権力」である。

学校教育とは、放っておけば多種多様でありうる各自の行動・思考様式を「規格化」(装置)なのである。

同上、p.90 

 例えば、「遅刻せず」に「自分の決められた席」に座っており、「教師が発言を許すまでは黙っている」というような行動の様式。時間を守る。忘れ物をしない。順番に列をつくってならぶ。などなど。

「規格化」。しかし、この規格化に準ずることができないものは。つまり行動・思考の様式をあてがわれた規格に沿わせることのできないものは…?

学習障害ADHD…は、このような規格化からの逸脱に対する「名づけ」であると考えられないか。

 

そうだとするならば、「障害」は特定の規格化を人々に強いる文化社会的な文脈において構成される何かなのだという理解が得られる。「権力」「規格化」は、信号機がそうであるように我々にとって、必要な社会的装置である。他方、画一的な規格化が、社会的に不利な立場に置かれる一群の人々を生み出す可能性をはらんでいる。

竹端寛さん、沼田和也さんのドキッとする言葉。精神障害と社会

竹端寛氏の文章に「エリー湖」の比喩というものが登場する(『脱・いい子のソーシャルワーク』の6章「精神障害と抑圧・反抑圧」)。


元ネタは、ベイトソンの『精神の生態学』にあるというが、アメリ五大湖の一つエリー湖は、家庭や工場から排出される汚水の捨て場であり、一時期は深刻な環境問題を引き起こしていたという。つまり、エリー湖は、人間の生み出す副産物(手に余るもの、見たくない、近くに置きたくないもの)を捨て置く「自己の認識の外側」であった、と。精神科病院も、「エリー湖」だと筆者は言う。これは「人間の捨て場所」なのだと。

 

どういうことか。閉鎖病棟に入院した沼田和也牧師は、その意味で「自己の認識の外側」=「エリー湖」であった精神科病院にに当事者として入り、その実情を目の当たりにした人なのだと言えるかもしれない。大声をあげることで、同室の患者に苦情を入れられた患者が、手足を拘束された状態で看護師に睡眠薬を注射され、しだいに意識をうしなっていくのを見、沼田先生は述べる。

「彼がここに拘束されているから、世の中は「まともな」人たちだけで独占していられるのだ。世のなかの「まともさ」を、彼が贖っているのだ。」

『牧師、閉鎖病棟に入る』p.84

「人間の捨て場所」という表現にしても、沼田氏の表現にしても、わたしは精神科に属して仕事をする人間として、かなりドキッとする。なぜなら、もしそうだとするならば私は「人間の捨て場所」を維持するシステムの一端を担ってしまっているからだ。そして防衛的になって、"Yes,but..."(「はい、そうかもしれません、でも...」)と言いたくなる。「だってそうじゃないですか、彼らを退院させてごらんなさい、通院治療の必要性だって理解していないし、身の回りのことだってどうやってやるんですか。症状が再燃して、まわりの人たちに迷惑をかけた上でまた病院にとんぼ返りですよ。そもそも退院させるって、受け入れる先なんかあるんですか。もし万が一のことでもあったら、誰が責任をとるのですか」。これは私の中にある、「世間の声」である。(私自身の声は…?)

 

沼田先生の文章の中に登場する「まともさ」という言葉。T.Jシェフならば、これを「残余ルール」と呼ぶかもしれない。残余ルールとは、法律的な明文化されたルールからは漏れ出るようなルール、すなわち「社会のメンバーにとっては「言うまでもない」ものであり、それを破るなど思いもよらないような種類のもの」*1である。この観点からすると、部屋に監視カメラが仕掛けられており常に自分が狙われていると述べることは残余ルール違反であり、酒を飲み続け会社に行けなくなり、食事もとれず失禁するのも残余ルール違反である。精神疾患の症状とされるような行動は、残余ルール違反、すなわちある種の逸脱行為と捉えられる。この考えによると、「精神的な病」は、社会的文脈の上ではじめて定義可能なのだということが示唆される。

 

精神疾患(心の病といっても脳の病と言う時もそうだが)は、個人の身体に内属する何かであるかのように表象されるが、実は社会文化的な文脈に置かれた身体の呈する、規範からのある種の逸脱に対するラベリングなのだと言える。そうだとするならば、精神科とは、そのような逸脱に対応する機能を持つ、社会的な装置なのだ。「治療」という衣をまとって行われる営みは、道徳的矯正とどこかで連続性を持っているようにも思われる。

 

日本が世界的に見て、膨大なベッド数をもつという現象は何を意味しているのだろうか。おそらく、長期入院することは何らかのニーズに対応しているのだろう。それは病院経営の論理なのかもしれないし、家族や地域住民の安寧といったものかもしれない。わからないが、これは日本人の、「逸脱」に対する一つの態度(これはケン・ウィルバーインテグラル理論でいう所の、「第三象限」に位置する)を表明するものと考えることで、何か見えてくるものが有るのではないか、それは私の中にあった「世間の声」とも関連するのかもしれない、という仮説をとりあえず提起だけしておきたい。

 

 

*1:中川輝彦・黒田浩一郎編著『よくわかる医療社会学』p.23