ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

瞑想日記 暖房の音に気づきを向ける

ラリー・ローゼンバーグさんの『呼吸による癒し』の「感受」に関する箇所を少し読んでから、瞑想。15分。

 

数息観の後、随息観へ移行。

今日聞いていた音楽が、頭の中に自動再生する。かすかな音なのではっきりはしないのだけれど、ノイズのようにしつこくリフレインする。苛立ちが付随して生じるのが観える。

音楽は、聴覚を外向する(部屋で稼働している暖房の風の音に聴覚を向けるなど)と止むのだけれど、いつの間にか、意識が内向しており、音楽が自動再生してしまう。そうすると、暖房の音は忘れてしまう。これはくせなのか。心の癖。心の志向する向きが、一定の方向に惰性的に流れてしまうという。

 

他の宗派では別の考えのようであるが、禅では瞑想時に目を完全に閉じることを戒める。斜め下に視線を落とす。すると瞼は半分開けて半分閉じた状態になる。これは外界と、内界の両方を観るという意味があると、どこかで読んだ記憶がある。わたしは、内向性が非常に強いので、多少意図的に意識を外向させるくらいでバランスはちょうどよいのかもしれない。次回、それを試してみよう。いや、次回と言わず、今。このキーボードをカタカタたたく音にしっかり気づきを向ける。鼻から出る息の音に気づきを向ける。この気づきを継続すること。

 

継続は、瞬間瞬間の継続なのだから、今にさえ、気づきを伴ってさえいればよい。

この辺の感覚はうまく言えないのだけれど。

 

坐から立って、皿洗いをした。

洗い物の最中、頭の中でおしゃべりが始まる。やはり、坐っている時と同じというわけにはいかない。ちっとも皿洗いに集中するなどということができない。だからこそ「練習」が必要なわけなのだろう。マインドフル、マインドフル。そう、レーズンのエクササイズというのがあるけれど、別にレーズンだけでなくて皿洗いのエクササイズだって事は同じということか。