ちらかし読みむし

心理療法、社会学、福祉などの領域の読書録、本の紹介など、その他書きたいことを書いています。

【内容紹介】パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」

エーリッヒ・ショイルマン (著), 岡崎 照男 (翻訳)の紹介をします。

なんと、100年前に出版された本です。しかし、古さはありません。書き方も平易。

わたしたちの当たり前に生きている日常を、別の角度から見直してみたい人。

現代と言う社会を相対化してみたい人。

そういう方は読んでみるといいかもしれません。

一言でいうとこの本は

一言でいえばこの本は、我々が当然のごとく摂り入れている”文明”に対する、一つの「レポート」であり「批評」だと思います。その文明とは特に、近代以降、西ヨーロッパから全世界へと広められたものです。

 

この「レポート」の特色は、それがサモアの酋長によるものであるということ。サモアのツイアビという名の酋長は、ある時、ヨーロッパを視察します。そして視察を終え、南海の故郷に戻ったツイアビは、自分が直に見聞きしたものを、地元の仲間に向けて語りかける。それがこの本の内容となっているのです。ちなみに、近本は1920年に出版されいます。第一次世界大戦の直後です。おそらく20世紀の初頭にツイアビは、ヨーロッパの各地を訪れ、曇りなき眼を以って、当時のヨーロッパ文明を見つめたのでしょう。しかし、そこで描かれている文明・文化は、100年たった今も本質的にほとんど変わらないもののように思えます。

 

そもそも文化とは、ある種の生活様式である

ところで、文明・文化とは「ある時代、ある場所で、ある人々に共有される、暮らしの在り方=生活様式」だと言えるかもしれません。

 

コロナ禍が始まったころ、「新しい生活様式」と言う言葉がテレビからよく聞こえてきました。文化とは、人々に共有される生活の様式です。マスクを着用し続けることは、はじめは「あたりまえ」ではありませんでした。しかし、新しい生活の様式は、次第に「あたりまえ」のものとなり、当初与えた新鮮さや違和感や、反発は薄れていきます。慣れ親しんだ文化はマスクのようにぴたりとわたしたちに張り付き、あまりに密接なので、意識されなくなっていきます。なじみの文化は無意識的です。コメをハシで食べることはあまりに当たり前なので、ふだん意識しません。しかし外国にいき指の上にコメをのせて食べるよう言われたとき、ハシ文化という「当たり前」を痛烈に意識するでしょう。

 

パパラギ』を読めば私たちの生き方が見える。何が語られているか。

このように、なじみの文化は意識されません。

ところが『パパラギ』、この本を読めば、サモア人酋長の素朴なまなざしを通して、私たちが当たり前のように生きているこの「文化」「暮らしの在り方」「生活様式」「生き方」を改めてまじまじと見つめなおすことができるのです。ではどのような内容が語られているのか。

以下は、本書を構成する章のタイトルです。そして、カッコ内は、その章で何が語られているかについての私がつけた注釈です。いずれも、わたしたちの「生き方」を規定する、重要な側面ばかりだと思います。(ちなみに、本書のタイトルでもある、「パパラギ」とはヨーロッパ人という意味です。)

 

パパラギのからだをおおう腰布とむしろについて(洋服、性)
・石の箱、石の割れ目、石の島、そしてその中に何があるかについて(都市論)
・丸い金属と重たい紙について(貨幣経済
・たくさんの物がパパラギたちを貧しくしている(消費社会)
パパラギにはひまがない(時間論)
パパラギが神さまを貧しくした(所有概念について)
・大いなる心は機械よりも強い(技術)
パパラギの職業について--そしてそのために彼らがいかに混乱しているか(労働観)
・まやかしの暮らしのある場所について・束になった紙について(大衆文化、メディア)
・考えるという重い病気(科学、教育)
パパラギはわたしたちを彼らと同じ闇の中に引きずり込もうとする(宗教論)

 

例えば、「お金は神さまである」ということ。

首長ツイアビの言葉は、素朴です。ですから、「お金」は「丸い金属と重たい紙」という表現になります。彼の言葉に難解なものはありません。しかし彼のまなざしは極めて鋭いものです。

 

たとえば「丸い金属と重たい紙」の章ではこのように語られます。

「愛の神について、ヨーロッパ人に話してみるがよい――顔をしかめて苦笑いするだけだ。考え方が子どもじみていると言って笑うのだ。ところが、ぴかぴか光る丸い形の金属か、大きい重たい金を渡してみるがよい。――とたんに目は輝き、唇からはたっぷりとよだれが垂れる。お金が彼の愛であり、金こそ彼の神さまである」

これは少し大げさでしょうか。でも、

「だが、おまえたちのだれも、白人の国ではお金がなしには生きてゆけない。日の出から日の入りまでほんの一日も。お金がなければ、とても。お金がなければ、飢えも渇きもしずめることはできない。夜になってもむしろがない」

と語られるのを読むと、どきりとします。お金がなければ、コンビニでパンを買うことも、スーパーでコメを買うこともできず、水道料金も払えず、家賃も払えません。これは、真実です。さらに、

「お金がないというだけで、おまえはファーレ・プイプイ(刑務所・牢屋)に入れられてしまうし、…」と続きます。

これが何のことを言っているのか、正確にはわかりません。お金がないから牢屋入り?? それはあり得ないだろう、と思います。

しかし、こう考えてみます。もし私にお金がなかったとすれば、家もなく、食べ物もなく、路上生活をせざるを得ないかもしれません。そうすると、路上でわたしが寝ていると、場合によってはお巡りさんのやっかいになるかもしれません。路上生活者が少なく、なじみのない地域だと、近隣住民がお巡りさんに相談に行くかもしれませんから。しかし仮にお巡りさんに声もかけられず、つかまったり、刑務所に入ることはなくとも、社会の中で「やっかいもの」扱いされることにはなりそうです。人々は、わたしが路上で寝ているのを、見ないふりをしながら、見るでしょう。遠巻きに通り過ぎていくでしょう。「お金がないこと」は、「牢屋に入る」ことと直結せずとも、しかし、社会規範からのある種の「逸脱」に該当してしまう何かなのではないか。酋長の言葉はそうした本質をとらえている、そんな気がしてきます。

「そう、おまえは誕生の時にさえお金を払わねばならず、お前が死ぬときも、ただ死んだというだけで、おまえのアイガ(家族)はお金を払わねばならぬ。からだを大地に埋めるにも、思い出のためにおまえの墓の上にころがす大きな石にも、お金がかかる。/私はたったひとつだけ、ヨーロッパ人でもお金を取られない、だれにでも好きなだけできることを見つけた。――空気を吸うこと。」

何をするにもお金がかかる。生まれてもお金がかかる、まず産婦人科に。死亡したら死亡診断書の作成料を病院に書いてもらい、役場に提出。火葬許可証をもらい、典礼会社にお金をはらい、葬祭場にお金を払い…。

いかに「丸い金属と重たい紙」が私たちの暮らしに入り浸っているか、それなしに生活があり得ないかが見えてきます。「お金」はヨーロッパ人にとっての「神さま」である、という主張は、あながちおおげさではないのかもしれません。なぜなら、わたしたち貨幣経済に没入している人間にとっては、お金がなければ、じじつ生きられないのですから。わたしたちは、わたしたちが生み出した「お金」という「丸い金属と重たい紙」にいのちを握られているわけです。

 

まとめ

…と万事がこの調子で、都市、時間、所有、といった概念(ツイアビはこのような難しい言葉を必ずしも使いませんが)が批判的に吟味にさらされていくのです。わたしが先ほど、「この本を読めば、サモア人酋長の素朴なまなざしを通して、私たちが当たり前のように生きているこの「文化」「暮らしの在り方」「生活様式」を改めてまじまじと見つめなおすことができる」と言ったのはそのような意味です。

 

わたしたちの当たり前に生きている日常を、別の角度から見直してみたい人。

現代と言う社会を相対化してみたい人。

そういう方は読んでみるといいかもしれません。

それにしても、100年前に出版された本であるとは…。

 

【本の紹介】『治療的面接の工夫と手順 人間学的力動論の立場から』増井武士、池見陽

治療的面接の工夫と手順: 人間学的力動論の観点から

 

心理療法家の、増井武士先生と池見陽先生の対談本。

対談と言っても、増井先生の聞き役を、池見先生がしているという感じで、どちらかというと、増井先生が主で話しておられる。わたしは、池見先生の本はいくつか読んだことがあったものの増井先生は初めてで、池見先生が何を言われるか期待して手に取ったのですが…増井先生の迫力には驚かされました。

 

例えば、自殺予防について語る最終章の最後の言葉。

「時間という神様はものごとをすべて変えるから、その神様に心をゆだねて生きていてほしい」

これはほんの一例で、こうしたさまざまな知恵がちりばめられた対談本です。

 

さて、ひとつ、印象に残ったのは「願い」という素朴な言葉でした。

専門用語でも何でもないふつうのことばですが、「願い」disireというものが、どうやらすごく大事らしい。

 

たとえば、「もしも500万円あったら何に使うか?(ただし貯金はNG)」という問い。たのしみながら、こころを自由にして考えてみることで、「願い」が、見えてくる感じがします。

 

対談の中では、「願いのワーク」というものが紹介されていました。自分自身の「願い」を熟考するうえで役に立つと思います。面白かったので紹介します。

 

願いのワーク

① なくなってほしいことは? まず、なくなってほしいことを紙に書きます。

例)朝2度寝してしまうこと。

  気分が落ち込むこと。

② ①で書いたことに「能力」とつけます。

例)「朝2度寝してしまう」能力

  「気分が落ち込む」能力

③ その「能力」のおかげで助かっていること、救われていることは?

例)現実から離れて、安全を守ろうとしていること。

  一時しのぎだけど、現実を忘れることができる。

④ ③はどのような願いから来ているのか?

例)本当は、人と仲良く、楽しく、笑顔で過ごしたい。自由で創造的でありたい。

 

ちょっとリラックスする時間をとって、ゆっくり考えてみてもいいかもしれません。

 

先生は、夢が現実を支え、現実が夢を支える、という言い方をされていましたが、たしかにそうだと思います。たとえささやかな「夢」であったとしても、その「夢」があるから、今の(つらい)「現実」を生き抜く力が与えられる、ということもあるだろうし、「現実」にしっかり取り組むからこそ「夢」もしだいに現実味を帯びてくる、ということもあるのでしょう。

 

【本の紹介】『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編

『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編

コロナ禍とわたしたちの生きる社会、世界の在り方に関連した短い論考が納められた論集でした。

論考のタイトルの例は例えば、

  • 内橋 克人『コロナ後の新たな社会像を求めて』
  • 杉田 敦『コロナと権力』
  • 最上 敏樹『世界隔離を終えるとき』
  • 隅 研吾『コロナ後の都市と建築』

…など。

編集者の村上氏は、科学哲学・科学思想専門の方ですが、国際法専門、政治理論専門、仏教専門…など、異なる分野の総勢24名が、論を寄せています。

 

全部を読むのは大変だったので、わたしは興味を惹かれる論考のみ、目を通しました。

面白いと思ったのは、石井美保さんのセンザンコウの警告」という論考でした。

石井さんは文化人類学者。南インドの村などに調査研究に出かけたりされた方であるようです。

 

タイトルにある、「センザンコウ」というのは、動物の名前。このセンザンコウは、医薬品・食材として違法に取引され、絶滅が危惧される種族なのだとか。

www.wwf.or.jp

そして、新型コロナウィルスと高い割合で一致する遺伝子を持つウィルスが、このセンザンコウから見つかったのだそうです。だから、ウィルスの宿主となるセンザンコウを含む野生動物の取引市場が、ウィルスが世界に広まる媒介をはたした可能性もある、と。

 

ここで、石井さんがリュック・ド=ウーシュという人類学者の研究を紹介しています。それは、「キノボリセンザンコウ」(センザンコウにはマレーセンザンコウとかいろいろ種類があるようで、キノボリセンザンコウセンザンコウの一種ということのようです)という動物に、ザイールのレレ族がどのようにかかわってきたかという話です。

 

「キノボリセンザンコウ」は、全身が魚のような鱗に覆われ、木の上に住み、一度に一匹しか子供を生まない、哺乳類なのだそうです。魚のようなのに、哺乳類であり、しかも鳥のように木の上で生活する。不思議な生き物、という感じがします。

そして、

通常の動物分類にあてはまらないからこそ、レレの人々にとってセンザンコウは精霊動物として禁忌の対象となり、また祭祀の対象ともなる。

(『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』村上陽一郎編,岩波新書,2020年p.230。石井美保「センザンコウの警告」より)

 

具体的には、レレ族の人々は、この動物を、

  • 畏れ、狩りを禁じた
  • 儀礼の場では、その肉を食べた(女性の生殖力を増大させる力をもつとされたため、その力を摂り入れようとした)

つまり、レレのひとびとは、センザンコウを畏れ、距離を設けると同時に、その力を儀礼の場で摂り入れるというしかたでつながりを持とうとしてもいた、と。

 

これは、センザンコウに対して、密猟を行い、商品として取引し絶滅の危機にさらそうとするという態度とはまったく異なる態度です。節度なく、うかつに、センザンコウを人の世界で利用しようとしたばかりに、未知のウィルスという人の世界には存在しなかったものが、人の世にもたらされてしまったのなら…。

 

それゆえ、センザンコウは人と動物、人と自然との関係性の再考を促しているのではないか、と。

(…)センザンコウという名前は、レレの人々の禁忌と祭祀を思い起こさせることで、わたしたちがいま、どのような禁忌を自らに課し、どのような種間の倫理を創造すべきなのかを暗示する、ひとつの符牒、声なき警告であるように思われる。

同上、p.231

 

わたしが感銘を受けたのは、レレ族の生活様式の中に、ある種の智慧が存在したということ。それは、異界との関わりをどのように持つべきかという智慧です。「異界」と言ってみたのは、単に我々がふだん慣れ親しんでいる、人間の社会の外側、ということです。だからたとえば、いつクマが出没するかわからない山奥とかもそうでしょうし、どんなウイルスを持っているかもわからないコウモリが生息している洞窟も、ある種の「人間のとは異なる世界=異界」でしょう。

 

レレ族の人々にとって、センザンコウと言う存在は、「宇宙の縮図」「水と天と地の生物の特性を併せ持ち」「度を越して多産な世界での節度ある人間の生殖を象徴的に表している」(pp.229-230)。レレ族の人々の智慧は、単に人間内での倫理でなく、人間以外の存在への理解をも含めた、(コスモロジカルな。つまり人を含めた宇宙全体の理解に根差した)倫理というものがあり得るのだということを示してくれているように思いました。

 

異界からもたらされるものは、日常の秩序を脅かすものです。そういう意味で、「畏れ」というものは必要であるように思います。コロナという存在は、わたしたちの社会内の秩序を脅かすものでした。

 

しかし、それと同時に、異界からもたらされたものは、良くも悪くも、日常をゆさぶり、活性化するものでもあるということ。これは、コロナと言う存在によって、リモート(Zoomなど)の浸透、それによって気軽に距離を超えて、遠くの人が主催する研修に参加することが可能となった、出勤しなくても仕事をできるようになった、それに伴って居住地の選択肢が増えた、満員電車に揺られなくてよくなった…など、あたらしい生活様式が人々にもたらされたこと(もたらされざるを得なかったこと)が、その例です。現代においても我々は、いわば異界から力を得ている、ということなのでしょうか。

 

レレ族とセンザンコウの物語は、とても示唆的でした。

「バザーリア講演録」一章 精神医療は自由の道具か、抑圧の道具か

フランコ・バザーリアの講演録『自由こそ治療だ!』を読んでいます。前から気になっていた本だったのですが、ようやく手にとることができました。はじまってばかり、一章からかなり激烈で、読んでいて不穏な気持ちになります。一章のタイトル自体が、「精神医療は自由の道具か、抑圧の道具か」。

 

バザーリア曰く、精神科病院の中に入れば、目の当たりにするのは、「貧しき狂人たち」(患者)と裕福なものたち(治療者)の厳格な区分である、と。そして、「支配階級」にある治療者や権力者が、治療の方法を決めているのであるから、精神医学は自由なものではありえない、と。

 

この観点からすると、精神医学はその誕生から非常に抑圧的な技術であり、国家が貧しい狂人たち、すなわち生産性のない労働者階級を抑圧するために常々用いてきた技術なのです。 フランコ・バザーリア『自由こそ治療だ!』岩波書店p.20

 

当然沸き起こるのは、精神医学は病気を治療するものなのに、なぜそれが「抑圧」と呼ばれなければならないのか、ということ。

それについては多分、そもそも、何を病気とみなすかという病気についての定義とそれについての、扱い=治療の方法自体が、「裕福な者たち」によって決められている、という社会的構造を考えてみよ、ということなのでしょう。(わかりませんが、わたしはそのように解し(読み)ました。)何かを病気とみなすとき、暗黙の裡にそれを病気とみなすことを是とする社会規範を再生産していることになります。つまり人間は「本来どのようにあるべき」(健康)であるか、そして何がそこからの逸脱(病気。シェフの言う「残余的逸脱」)であるか、という社会的な規範を。

 

そして、「あなたは病気です」「だから〇〇という治療(入院含む)を受ける必要がある」とみなすとき、相手は「客体」であり、「主体」ではない。それに対して相手が「NO」と述べるとき、この患者は「病識がない」「治療に協力的でない」とみなされる。このようなことを「抑圧」と言っているのだとするならば、理解できる話です。あきらかに、わたしも抑圧する側の陣営に回っています。

 

しかし、精神医学という抑圧の技術を用いてきたのは国家であると、上の引用文でバザーリアは言うのですが、そこは、まだよくわかりません。日本の場合は、精神医学という抑圧の技術を用いるよう強いているのは、「国家」「権力者」「裕福なもの」というより、もっと曖昧模糊として偏在している、「世間の目」「みんな」(「みんなが迷惑する」というときの、実体なき「みんな」)なのではないか、という気がしています。まだ仮説にすぎませんが…。「世間の目」は、「みんなに迷惑をかけてはいけない」と常々ささやいています。そしてみんなに迷惑をかける人は、病院や施設にずっと入っていて仕方ない、そのほうが本人のためにもなる…などとささやいている気がします。日本で精神医療に関与しているわたしは、特権的地位にある人の代表というより、知らず、「世間」の代表となっていないか?と考えると、思い当たるところもある。

 

少し希望が持てるのは、次の文章です。

逆に医師が患者の異議を受け容れたり、医師が弁証法的な関係性の相手役になることを受け容れたりするなら、医学と精神医学は解放の道具になることを意味しています。 同上、pp.22-23

ここでは、患者は単なる客体ではない。弁証法的というのはdialecticですから、対話的dialogicという意味でしょうか。

 

2021.8.27のノートより

コンビニへ行く。道々の花や木、家屋が懐かしく、美しい。この街に引っ越してきてよかったと、思う。毎日の通勤時、目にする古いアパート前に伸びる草むらの緑にすら感動を覚える。

 

見世物ではない生活圏の持つ美しさ。家々はどこか古ぼけて、それでいて美しいのは、そこに歴史と人々の生活の息遣いを感じるからだ。あの赤さびたアパートの住民はおそらく経済的に裕福ではないと想像するが、ていねいな生活の息遣いは、この種の美を例証している。丁寧さは秩序をもたらす。それは非感性的な美である。

2021.11.8 山小屋瞑想計画

昨日の、やりたいこと25個書き出す作業に引き続き、「山小屋瞑想計画」を立て、近い週末、某山麓の安宿に二泊することとしました。目的は、日常の生活空間から離れ、瞑想と逍遥に勤しむこと。

k-kotekote.hatenablog.com

金曜日、奉公先のお勤めが終わったらいったん自宅へ戻り、支度を整えて、出発。20時ころ到着予定で一泊を済ませ、翌日から日がな瞑想と山歩きをして一日過ごすこととします。

 

土曜は、最低でも、朝、昼に三炷(一炷は25分)ずつは座り、そのあとは、雨が降ってさえいなければ、あたたかい恰好をして、山を歩く。人がすくなく、眺めのよい場所があれば、そこに座り込み、しばし瞑想する。夕からは、二炷は座れるか。眠気に負けてしまいそうな気もしますが。

 

日曜は、朝は三炷。昼前にはチェックアウト、しばし自然散策して、山を下り、しめくくりに、どこかの温泉に入って夕食をとって帰宅。

 

この2日と少しの質を左右するのは、端的に、自己規律でしょう。
・もちものは必要最低限。本は一冊だけにしておく(置いていくべきか)。
・書き物は夜だけ(ペンも置いていくべきか)
スマホは、金曜日家を出てから、日曜の夜までは基本オフにしておく。土曜夜は緊急連絡がないか一度だけ確認(スマホも置いていくべきか)
といったルールも決めておく。

 

さて、宿の予約は入れ、バスの時間も調べた。あとは、温泉をどこにするか、かなぁ。
日常押し寄せる瑣事のパターン化した潮流のただなかに、個人的に重要と思われる行事eventを創設しプロットとして差し入れることで何が生まれるのか、楽しみな感じがします。

2021.11.7 やりたいこと25個書き出す

今日は休日。
近所にあるケーキ屋にある喫茶スペースにて、やりたいことを「25個」とにかく書き出す、そしてその中で大事なものを5つ丸をつける、という作業をしました(ライダー・キャロル著『バレットジャーナル』の中のワーク)。

 

1有休をとる
2バザーリアの講演録を読む
3登山

 

紙一枚あればだれでもできる、シンプルな作業ですが、丸を付けた5つを眺めていると、自分が生活の中で志向しているものが何なのか、網羅的に見えてくる感じがしました。25個書き出した中には、「やりたいこと」というより、「やらなければならないこと」も含まれていたのだということが、その時点で明確になり、それらには、見事に丸がついていません。「やらなければならないこと」は今の職務上求められていることであって、あまり、心が動かないらしい。

 

やりたいことばっかりやっていていいのか、という疑問も抱きつつ、やりたいことをやるために必要なことを、行動レベルに細分化し、最初の一歩を予定のTo Doに組み込んで、ひとまず完了とする。日々の雑事の中で、やりたいことをやるのも、なかなか難しいことなのだと気づきます。